「初子さん、こんにちはー!」
今日もカーブスのドアを開けると、コーチたちの明るい声。ここは、私だけの私の居場所。
 東日本大震災からもう13年。あの時は、泣くことも笑うこともペンを持つこともできなかった。今思うとうそのような毎日であった。ただ、自分ができることを黙々とこなすだけの2011年3月であった気がする。
 今年の1月に能登半島地震がおき、毎日映像を見ながら被災地の皆さんの心配をしていて13年前を思い出しました。
その当時は、小学校の学校司書をしていたため、校舎内に津波や原発避難してきた方々の食事配布が当番で決められていました。
もちろん、我が家も断水し、宮城にいる息子も帰れず、夫も自衛官なので、どこの被災地へ派遣されるのか?いつ自宅へ帰って来られるのか?なかなか連絡もとれず、余震におびえながら、不安な毎日だった気がします。
 そんな中、原発避難のため、わが家に義母と夫のおばさん(当時2人共70~80代)が急に同居となりました。今となっては、年老いた2人の生活の変化を考えると、急におこりだしたり、毎日体調不良を訴えるのは当り前のように思います。ただ私も食料も水もガソリンもない中、避難している方々の学校でのお世話、そして余震と原発で不安な子ども達に寄りそい、家に帰ってからは2人の世話で気を使いながら、毎日へとへとでした。
 同居して2週間位がたち、ようやく近くのスーパーが再開して買い物へ出かけた時、
「こんにちは。カーブス、また始まったよ。電気があちこち壊れてつかないけど、運動はできるようになったよ」と店内で声をかけられました。お互いに名前は知らないけど、カーブスで何度か顔をみかけた人でした。
私はその時「あっ!!私が私としていられる場所があった!!」と心に光がさしたような気がしました。声をかけられても私はガソリンのメーターの目盛りを気にしながら職場へ通う毎日だったり、家へ帰ってからも、すぐ2人の食事の世話、病院通い、そして不平不満などを聞くことが続いていたので、すぐには行けませんでした。つらすぎて、泣くことも、せまい我が家では声が聞こえるので、バスタオルを口にくわえて、ふとんの中で泣いていた日々が続きました。私自身というものを押し殺して、言いたいことも言えずに、がまんしていた毎日だったと思います。
 でも、カーブスのドアを開けたとたん「初子さ~ん!!お久しぶりで~す」と以前と全く変わりない明るい声。ここは、ここだけは「初子さん」と呼んでもらえる私の居場所!!と涙がこぼれたのを今でも忘れません。
それからは、できるだけ仕事帰りに自分のためにもカーブスへ行って、ちょっと汗をかく運動をすることでストレス発散され、少しでも不安や心配を仲間と共有でき、笑顔で2人の待つ家へ帰れるようになった気がします。
家では、できるだけ、明るく前向きな気持ちになれるような小学校での子どもたちの話をいっぱいしたと思います。
私がカーブスを続けていなければ、自分自身を出す居場所がなく、汗をかく運動をしてストレス解消することもなく、震災で変わってしまった生活で、仕事もやめていたことと思います。あの時、自分を取りもどすことができる場所カーブスがあって良かったと今でも本当に感謝しています。
 その後、義母もおばさんも慣れない地ではありますが、ディサービスやショートステイでお世話になり、おだやかな生活をして13年がたちます。
 能登半島の皆さん
もう少し落ち着いたら、ぜひカーブスへ顔を出してみてください。あなたも自分自身を大切にできる場があったらホッとすることでしょう。きっと前向きな心を持つことができると思います。
 私は今日もカーブスへ向かいます。
「初子さん、こんにちはー」
きっと、今日もまた明るいコーチたちの声がむかえてくれることでしょう!!