幼い頃風邪をこじらせ重い腎臓炎になり長期入院、退院後も将来妊娠した時の腎炎再発を危惧し、一人娘として酷く過保護にしていた母から、身体の発達時期である小学校卒業するまで、体育の授業は全て見学!とされてしまったせいで、私は人並みはずれて運動神経のお粗末な人間になってしまった!(というより、本当は生来の鈍さの言い訳か!?)
スポーツ番組を見て自然にゲームを理解できるようになる事もないまま成長し、友人には、博物館陳列級のスポーツ音痴ね、と笑われている。ただし免許は返納済みながら、大好きな蓼科高原の爽やかな風を切って音楽を聴きながら運転するのは、山の幸を料理するのと合わせて長年の楽しみだった。

 どこに行くにも車のライフスタイルのまま結婚し、直後に夫の海外出向により暮らしたケニアのナイロビでは、他の在留邦人のようにゴルフ狂いではない我々夫婦は、テニスや乗馬を友人達としたのだが、結局、私のコートでの動きは、まるで蝶々がヒラヒラしてるみたいで話にならず、仲間に迷惑だからと、そして、乗馬はたった一度落馬したら、もし妊娠していたら流産してしまっていたところだ、という理由で夫から禁止命令が!という情け無い事に!!仕方なく子供も、することも無い私は手仕事や物作りが好きだったので、植民地時代からの邸宅に住んでいるイギリス人婦人から、現地でとれる羊毛で、糸作りから始まり、小さな絨毯を織ったり、セーターをあんだり、特産のサイザル麻を染色しての壁掛け用のタペストリー作りを習ったりして過ごす事に、、

 何年かして長男誕生後、帰国。すぐ又長女が産まれたが、全てがゆったりしていたケニアからは一変して、東京での生活は夫の仕事も毎日帰宅は午前様!長男も当時は、"多動児"ではないかと悩んだほどの問題児で、双子より大変と言われる年子の育児と、実家の母とは真逆の価値観を持った義母との、まるで華岡青洲の世界さながらの同居生活で、鉄のきつい輪を常に頭に嵌められたような神経の張り詰めた日々が続いた。

 30代半ばの頃、またジュネーブの国連機関へ子供連れで赴任する事になった。ケニアとは違い、所謂マンション暮らしではあり、緯度的にも半年は日照時間の短い日々を我慢しなければならないけれど、イースターを境に突然、魔法の様に大地が様々な彩りの花で覆われ、長~い夜を楽しむ為のパーティーシーズンの冬が巡ってくるまで、毎週末アルプスの山々を訪れたり、簡単なランチを用意して、近くの野山に車を走らせ、ハイキングしながら、咲き乱れる野の花を持参したバケツに水を入れ持ち帰り、家中を花いっぱいに飾るという貴重な楽しみがあり、大切な思い出の一つになっている。
ヨーロッパのど真ん中に位置するスイスは、どの国にもアクセスが良く、車であちこち巡ったものだが、残念な事に、まだ幼かった子供二人は、様々に変化する車窓の景色などなんの興味もなく、すぐに喧嘩を始め、"お腹が空いた~!!トイレにいきたい!パパ、あと何分でホテルにつくの~ッ!!"と騒ぎたてるばかりで、運転する夫を毎度苛立たせるばかりだった。二人の記憶の中で一番なのは、美しい景色などよりスキーに出かける車の中で、毎回かけていたABBAの曲、その中でもmoney
money money~♫のフレーズが流れると、二人揃ってお腹を抱えて笑い転げていた事だろう。

 帰国後もスイスと同様、"ママは家族専用運転手"状態は当然の如く続いた。

 海外勤務の時は、結構イキイキと仕事していた主人は、帰国後段々に暗くなっていった。凡そ人間心理の機微や空気を読む事が全くできない主人には、霞ヶ関という特殊な職場は、息苦しいだけの場所だった。何年か我慢した挙句、大学で教鞭を取る道を選んだのだが、役所の都合でその前に暫くハワイのシンクタンクに勤務する事になった。
しかし子供達はまだ色々難しい時期で同伴する訳にもいかず、長年の仕事上のストレスからくる不眠症などで心身症を来たしていた夫の為、私は何度も現地に"空飛ぶ家政婦兼看護師"として行き来する事に!帰国後、名古屋大学に赴任する事になったが、受験を控えた子供を高齢の義母に一任することも、私一人を頼って箱根のホームに移り住んでいた超高齢の実母の世話まであった私が家を離れる事は無理だった。
 短期間のつもりで始めた単身赴任は、諸事情からついに定年まで伸びてしまい、その間にここには複雑すぎて書けないようなとんでも無く辛い出来事が起こり、家庭が空中分解しそうになったり、実母が98歳で亡くなり、その後何年かして義母も他界。暫くして更年期症状なのか、それまでの疲れのせいか私は鬱状態に陥り、無気力で何もできない状態を抜け出すのに6~7年かかっただろうか?ふっとある日鬱状態から抜けている自分に気がついてから段々と自分の体を労ったり、車ばかりで弱った足腰もきたえねば、と思うようになり、少しずつカーブス通いやボランティア活動、友人との外出などもぼちぼち増えてはいった。

 しばらくして定年退職し家に戻っていた夫の様子がある日明らかにおかしいのに気づいた。何とか上手く言いくるめて診察を受けに連れて行ったら、認知症の診断が!!しかし、長年夫がかかっていた医師からは、ご主人のような猛烈な働き方をする方は退職後認知症になる事が多いですよ、と聞いていた私は驚くというより、くるものがやっぱり来たな!という思いだけだった。
認知症とはいえ、何もできない以外徘徊などはなかった為デイサービスに預け外出もしていたので、当分家で看ていられると思っていたのだが、私が足を怪我した時、介護のプロから、"お宅は、お子さん達も遠くにいるから、奥さんが事故や急病になったら、即ご主人をみる方がいなくなってしまうから早く施設に入れる事をお考えになった方が良いですよ"と言われ納得。夫を良心的施設に預け一人では広すぎる一軒家も売却、大型トラック数台分の家財の処分、希望条件にあう一人暮らしに適したマンション探し等々、皆が驚く程全てが嘘のように、サポートしてくださった素晴らしい専門家達のお陰で理想通りに達成出来たのだ。有り難い事に夫も施設でおとなしくいてくれたし、またコロナ禍により面会が制限されていた事もあり、一人暮らしを始めた私は何十年ぶりかで、妻、母、嫁、娘という柵から解き放たれた思いを抱くようになっていた。

 そんなある日偶々youtubeでカザフスタンのオペラ歌手の歌声を聞いた時、私に、雷が落ちたが如き衝撃が走った!!考える余裕など無いまま、pcを開いて彼のコンサートを夢中で調べ上げ、二か月先のチケット、フライト、ホテルを2週間の内におさえていた!偶々、米在住の娘に話すと、そんな普通滅多にいかない国に年寄りが一人で行って何かあったらどうするのよ!ママまで認知症になったの!と息子と共に大反対されたが、飛行機がもし堕ちてもやりたい事して死んだなら悲しむ事ないのよ!と言い残しカザフスタン、そして半年後のレニングラードでのコンサートにも出掛けた。6.5オクターブの美声と、人間離れした歌唱力、プリンスの如きビジュアルまで備え、謙虚で愛国心に溢れた彼に誰より本人自身が驚く程クレージー&ホットになってしまったのだ。世界中の熱狂的ファン達とfacebook上でやり取りしたり、youtubeを虱潰しに見ていく内に、世界各地にまだ日本では知られていない素晴らしいアーティスト達を沢山見つけ、それらのfacebook上のファンクラブのメンバーと頻繁に情報をやり取りする内、酷似の感性で共鳴しあえるメンバーとは、話題は音楽のみならず、身近な事から、文化、歴史、政治、宗教と広がるばかり。高校時代など退屈極まりない科目でしかなかった各国の歴史や政治体制などまで知りたくなりAIまで使って調べまくるようになってしまった。それに手仕事やデザインするのが好きな私は、推しの写真を色々加工して、バッグを手作りやオーダーしたり、ロゴをデザインしてジュエリー、tシャツをオーダー、マスクに刺繍したり、の楽しみまで!!その年でよくそれだけクレージーになれるわね!と呆れる友人が殆どながら、未亡人となった今もとにかくミーハーワールドは私に至上の幸福感を与えてくれる。
 読者の方々は、これはカーブスについての記事では?と訝しがっていらっしゃる筈!そうです!私が命の推し活を続けられているのは、心を分かち合える良き友と、何より大切な健康面を縁の下で支え、若く明るいスタッフに励まされながら、普通のジムでは全く続かない運動大嫌いの私が10年近く通い続け、転ぶこともほぼない体にしてくれた"最後の砦"がカーブスで!!!!それが近くにあることも、引越先の必須の条件の1つだったのです !!!!