カーブスを終え、自転車のペダルを踏みだした瞬間、スカッと足が空を切った感覚に、「やばっ。チェーンが外れた」と思った。が、外れていない。何だ?この足の軽さは。が、直ぐに解せた。あれだ。Mコーチの恐怖。
 通呼「M男のシゴキ」。マシンの時、コーチ達は「肩の力を抜いて」とか「腹圧忘れない」「背筋を意識して」とか皆声を掛けてくれる。Mコーチの声掛けは強い。拍手のスピードを上げ、「はい。はい。はい」と言う掛け声で、疲れて緩み、運びも狭く遅くなる私達をどんどん追い込んでくれる。一人でマシンを動かすとつい腹圧も力も抜く訳ではないのだが、ほんの数秒でもMコーチが相対して声を掛けてくれるとガンガン効く。汗が吹き出し、疲労するが心地良い。もちろん大人気だ。だが、運動が苦手、むしろ嫌いだった私は、密かに「Mコーチの恐怖」と呼んで、人間的には大好きな「M男のシゴキ」に距離を置いていた。だが、この日、カーブス終了間近、最後の一人になった私はMコーチと一対一で、最後までの時間声を掛け続けられた成果だ。僅か十分足らずで足の筋力がアップしたのだ。
 感激の余り自転車の一件を話してからは、Mコーチとも気軽に話せるようになり、効果テキメンなシゴキも喜んで受ける様になった。
 
 こうした内容で自慢のコーチをエッセイに書き始めたのはもう八年も前だった。その年送付に至らず、その後はエッセイを書く暇も無かった。今も、今日も本当は無い。だが今しか、今年だからこそ書かなくては、と思い、再び私はエッセイに取り組んでいる。
 
 当時すでに姑の介護が四年となり、一時は松葉杖を使う程足腰を痛め、その体はもちろん、落ち込んだり、怒りが収まらなかったり、やる気が失せる心もカーブスに支えられていた。「介護はどう?」「照美さんは大丈夫?」と皆が声を掛けてくれたが、特にYコーチの優しさと穏やかな笑顔に和み癒されていた。無くてはならないその存在も引き続きエッセイに書こうとしていた八年前。
 やはりすでに認知症の継母を八年も介護していた実家の父が「転んで寝込んでいるから来てくれ」と電話して来た。「直ぐには行けないけど夜までには行く」と答え、私は一週間分の料理を作り、夫と姑の三日分を小鉢や皿に用意し、ディサービス二回分とショートスティ一回分の荷物を全部準備し後を夫に頼み、残り半分を鍋やタッパに持って実家に行った。ドアを開けると、寝込んでいる父と思ってか「じじい。あたしのメシはどうなってんだ」テーブルに座し新聞をめくりながら、継母が怒鳴った。一日食事を待たされた認知症とは言え、腹黒い後妻業の女だから覚悟したが、予想以上の酷さに私はその後も通う事にした。
 向こう三日こちら四日やれば良い訳ではない。一週間で二週間分働くのだ。一週分の料理の半分を置き、半分を持って行き、それを食べながら通院介護、買い物をし、向こうも三日でデイ三日二人分の荷作りをし、一週間分料理し半分を鍋やフライパンに残し、半分を持って自宅に戻る。そんな生活を二年続け限界が来ていた六年前。姑が腸ヘルニアで入院し、継母も転倒骨折して入院した。同時に気の抜けた実家の父も認知症となり、ヘルパーさんを導入したものの父は施設の入所は拒んでいた。
 そんな中、夫が癌となり、何と実の妹も癌になった。二、三日に一度ガンセンターに通い検査や禁煙外来等二、三件回り延べ毎日の通院。ただ不幸中の幸い。「手術入院になったら実家に来られなくなるから、その間だけでもショートスティしていて」とお願いをして、父には入所してもらえた。寝たきりの施設は嫌だと言うので、ショートスティしている間、昼間は同じ敷地内のディサービスに通えるという多機能型小規模介護施設を探し出したとは言え、あれ程毛嫌いしていた施設に、父は「ここは極楽。お前と喧嘩しながら家に居るよりずっと良い」と居着いてくれたのだ。
 
 認知症とは自分は正しく行動出来ているから認知症ではない、と思っているから認知症なのだ。自分は物忘れも多いしヤバイと思っているうちはまだ大丈夫。だが自分は認知症ではない大丈夫。が出たらダメ、認知症なのだ。だから問題行動に介護する側は声を荒げる事も多い。何もやる気が無くなるを超えて何もしなくなる。だからどの家でも喧嘩は日常だ。姑は近所の庭に入って花ではなく蕾を摘んで来た。理由は「蕾は可愛いからヒネリたくなる」そうで、彼女にとってそれは正しい行動だ。介護とは身心共に疲弊するだけでなく毎日がサスペンスなのだ。米の袋に包丁が差さっていた日から我が家の包丁は隠された。
 
 こんな毎日から逃避するため私はカーブスに通っていた。プチ家出と称して。もちろん最初は体のため体力のためだったが、やる気が失せ折れそうな介護の心の維持が最重要だった。多忙だからなかなか行けないが、時々でも、行けば次の日台所に立つと、目線が、視線が高くなっており、背が伸びたのかと思う程姿勢が良くなっている。体力もちろんだが、家事等のやる気も出てくるのだ。カーブスで動いて疲れるはずなのに、逆にやる気が出て動けるようになるのだ。忙しくて、なかなか行けないからこそ、行けた時の効果がはっきり感じられるので、カーブスは辞められないし、辞めてはいけないと解っている。
 こんな日々の中、夫も妹も癌は緩解し、癌センターを卒業したのだが、あと五年しか生きられないと思い込んだ夫はやりたい放題。言いたい放題。飲みたい放題。癌を苦に一日中酒を飲んでいたのでアル中になり、認知症も併発した。足元が覚束無く手摺りの伝い歩きだったが、転ぶと一人では起き上がれなくなった。それを私が火事場の糞力で引き摺って行き、柱に掴らせ「セイノ」の掛け声で引き上げ立たせる。日に何度も、そんな毎日になった。一人で起こせない時はレスキューを呼ぶのだが、何度も呼び搬送を断っていたので「これは救急案件ではない」と断わられたので訪問診察とアルソックに切り変えた。
 やがて一時は90才越えの認知症三人看ながら寝たきりになった夫の身体介護になった。カーブスにほぼ行けなくなった昨年の始めに継母が、年末には夫が亡くなった。その後は大量の書類に追い立てられ、入院中の姑と入所の父の通院介護等の面倒を看ながら、姑の申告、夫の一年分の経理と準申告を済ませた。これから相続の書類と手続きに取り掛かる。
 
 この僅かな合い間に、この一番多忙な今年、あえてエッセイを書いている。24年問題で、レターパックが明日郵送されるか不安な中で。
 以前からカーブスの必要性を感じてきた私だが昨年は特に感じた。身体介護で再び足腰を痛めた上に、かつての父の様にまるでやる気が失せ自分も認知症かと恐れ、時々カーブスに行けばすぐに息が上がり疲れてしまう。体力もすっかり落ちてしまっていたからだ。動かなければ動けなくなる事例を見てきて、自分もまたそれを実感したからこそ、世界中に、休んでいる人に、自分にこそ、声を大にして「カーブスに行って動け。でないと動けなくなる」と言いたい。特に疲れて休みたくなってしまう時こそカーブスに行こう。そうすれば疲れは消える、と。自分の体も心も自分でしか守れないのだから、と。そしてカーブスはいつでも私たちを支えてくれているし、こんなにもウェルカムなのだから、と。