楽しく通う秋田オーパが三月二十日で六年になり、開始まもなく入会した私も共に体を動かしてきて、今筋力がつき軽くなった体の変化が嬉しく気持ちが前向きになったのを感じる。
 
 入会した当時、私は秋田駅から屋根伝いのウィロード先に建つビルのホテルで洋食部門の洋風総菜を作り、同ビル地下食品売場に提供するデリカの仕事をしていた。仕事帰り地元方面への列車に乗車する為改札口へと急ぐ私に若い女性が"カーブスです。"と名のり短時間で筋力がつく等と説明してくれた。私は何を手がけても満足な結果にならないのに気持ちだけは強く、色々な事に手を出してなにかと急がしい。やり続けるには元気でいたいし筋力は何才になっても鍛えられるそうなので体が自由に動くうちに筋力をつけたいと思い、次の列車に乗る事にしてその場を覗いて見たくなり、彼女について行った。
 室内には幅広い年代の方がトレーナーさんの助言を受けマシーンを操作していた。皆さんの表情に楽しく励んでいるのが分かり雰囲気の明るさに好感を持った。操作をする事になり簡単に動かせると思ったマシーンに想像以上の負担を感じ、特に脚が重く、衰えが不安になり入会を決めた。長年の立ち姿勢での仕事により疲れが溜っている様だ。
 
 "生きる事とは食べる事"と思い続けている私は美味しい料理を口にするのを至福の時と思い、食べたいとの思いで調理士免許を取得していたが、それは全く趣味であり仕事に活用しようとは考えた事もなく、東京から進出した大手スーパースポーツ売場担当社員として充実感を持って勤務していた。
 私が本腰で洋食に取り組むきっかけになったのは、就活中の友が技術を身につけたいと竿燈通りと呼ばれているホテルの調理補助の面接に臨むのを車で送った事だった。面接が終わり厨房を見回る時、調理人達の働く様子を知りたくなって許可を得て同行した。厨房では婚礼宴会準備で職人が忙しく機敏に動き、私はその動きに自らの腕で仕事をする姿が魅力的に映り羨ましいと思った。ステーキの匂いに誘われ、焼いているコックに近づき「お美味そうですね」と声をかけた私に彼は「お美味そうじゃない!!旨いんだ」と味見用の皿に焼き上げたステーキを乗せて私の前に差し出した。私は今でもあれ以上のステーキを口にしていない。料理の進行状況を見に来た料理長が彼と私の様子を見て近づき、「一緒に洋食をやりませんか」と言った。彼は市内料理学校長を定年後、ホテルに招かれた方で、ステーキを焼いたコックMは彼にとっての優秀な生徒だったと知った。
 彼の自信に満ちた言葉に衝撃を受けた私は本格的に洋食を身につけるまたとない絶好の訪れを感じ、十六年いた会社に退社の意志を告げ、開店準備から係わりけっこう頑張っていたので不備があったら改善します等と言われ残念がられたが、満足した気持ちで過ごして来たがどうしてもやりたい事があると心情を話し、売場のチーフに「だめだったらもどって来なさい」との言葉を温かく感じながら売場を後にした。私の洋食への道は食材には欠かせない大量の玉ネギのみじん切りに始まり、教育係のSは親切だったし、抜群の腕のMは裏技を駆使して導いてくれ、楽しくも頑張り夢中で日々が過ぎた。
 ところが十三年目にホテルは本部の別事業への転換で閉鎖になった。年々の宴会数の減少で先の見通しが立たず、利益のある今ならば社員全体を保障出来るとの事だ。そうは言っても五十八才になっていた私に身につけた料理を活用する場も無いだろう。でも私には後悔よりは感謝の思いが強かった。一番やりたかった事を自分の宝にし、今後は目をふさいでいた主婦業に専念しようとした。
 
 昼食の支度にかかろうとした時かかって来た電話は駅前のホテルからの仕事の誘いだった。前の所より規模が大きく、やっと一人前になったばかりの私に務まるとは思えなかったがせっかくなので話を聞こうと間に合う列車に乗った。ロビーで待っていた調理長が話す内容は、中央厨房で総菜を作るのを基にしその後は宴会料理を手伝うとの事だが、宴会に関わると終わり迄帰られなくなるのを知っているので、デリカだけなら一人でも出来そうだし仕入れた食材を自由に使用してよく仕上げも任せると言われ、自己中心の私にはピッタリだと感じ「わかりました」と返事をした。どこまでやれるかは分からないがやってみようと決心した。食材を前にして何を作ろうかと迷ったが、何人も好きなポテトサラダと旬の野菜果物を使ったサラダを作る事にしたが、後一品が浮かばず困っている私にチーフがとっておきだと言う料理を伝授してくれた。売上げが気になり売場を覗くと昼迄には全て完売でほっとした。
 私は好きな事が評価されているのが楽しく、密かに自信にもなったが、料理中は感じないのに完成した途端に疲れを感じるようになって病院に診察してもらうと、どこにも異状は無くむしろ同年代の人より骨密度も高いとの結果が出てほっとしたが、気がつけば料理スタッフで最年長になっていたしもう充分にやったのだからここで休んでいいと考えるようになったが振り切れずにいた。

 そんな時、新型コロナの感染が起こり、大変な事なのだが私には決断の機会となった。宴会に空きが出て手のすいているコックに料理を伝授し大丈夫なのを見届けて自ら厨房にサヨナラをした。気づけば二十五年間男性の中で一人料理を続けた事だ。これからは自由に時間を使いカーブスにも週三回行けると思ったのは間違いだった。仕事をやめると同時に以前から続けていたボランティア等の役員を一手に引き受ける事になった。でも前だったら面倒に思った事が人の為になるならやろうと思う様になるのは筋力の力だ。興味の無い人には無駄と思える事に夢中な私にはやっている事が数多くあり、一番長く続いているのは歌で仲間とグループを結成し、ソプラノの歌い手でピアノ教師でもある先生の指導を受けている。人前で歌う事もあるので体型が気になっていたが先生が体が引きしまりスマートになったと褒めてくれた。自分では確実に体が軽く動きやすくなったと感じているのになかなか他人が気づく程にならないのをもどかしく思っていたが、大切な先生に言ってもらえたのが嬉しくて心が踊るように感じた。

 私にはカーブスの良さを絶対に知ってもらいたい人がいる。彼女は長年一緒に活動して来た更生保護女性の会の会長であるKさんだ。更生保護とは犯罪を犯してしまった人の社会復帰を支える会で、会員の前での臨とした態度と、一緒に趣味の絵手紙を楽しむ彼女の優しさを知る私は、彼女に地域のリーダーとしてこれからもずっと活躍してほしいと願っている。なかなかスケジュールが合わないがまずは一緒に体験してもらいたい。秋田県は人口減少が進んでいる。体を動かせる人は皆、筋力等に気をつけ元気で頑張ってもらいたい。もっともっとカーブスの良さを知らせたい。