二〇一〇年七月。私は『ガン患者』になった。五十六年間も病気らしい病気などになった事もないのにいきなりなった病気が『ガン』だ。『青天の霹靂』『頭がまっ白』『なんで私が』お決まりの言葉が頭にうかんだ。主治医の「治りますよ」の言葉で我に返った。『悪性リンパ腫』百種類ぐらいある中の『びまん性大細胞型B細胞』聞いたこともない病名だった。五年後の生存率は七〇%~九〇%、二人に一人はガン、主治医の説明は続いたが何を言っているのか全く他人事だった。

 私の中では「ガン」イコール「死」の病気だった。『血液ガン』のため手術は出来ないので抗がん剤と放射線での治療になるらしい。すでに治療計画は出来ていて「早速、来週からやりましょう」まだ私は心の整理も準備も出来ていなかったが...待ったなしで計画通りの通院治療が始まった。
 抗がん剤治療の副作用は聞いてはいたが想像以上のものだった。『吐き気』『倦怠感』一番ショックなのは『脱毛』だった。身体中の毛というものがすべて抜けてしまうなんて!!治療が終わればまた生えてくるとはわかっていても悲惨だった。ツルツルの頭は長い間カツラのお世話になった。放射線の治療は痛くも痒くもなかったが右顎が病巣だったので首に照射したおかげで味覚が全く無くなって何を食べても味がしなかった。が、頑張って食べた。体力をつけなければ次の治療が出来なくなるからだ。元来、丈夫な身体のおかげで治療は計画通り順調に進み経過観察になった。
 
 三ヶ月に一度の採血、六ヶ月に一回のPET―CT検査。二年ぐらいは順調に来たが、何回目だったか忘れたが主治医の前にPET―CTの写真がずらりと並んでいた。いつもと違う!?再発だった!!今度は左側だった。そういう事がある病気だと分かっていても最初の告知の時よりもショックを受けた。絶望感でいっぱいだった。また同じ治療をするのかなぁ...!?イヤだァー生存率と言う言葉が頭をよぎった『私、死んじゃうのかなぁ~』『還暦は迎えられないの!?』かな。自分で車を運転して帰宅をしたがどこをどうやって来たのか覚えていなかった。また同じ治療だ、やるしかなかった。「吐き気」「倦怠感」「脱毛」「味覚障害」分かっていても辛かった。治療が終わると経過観察で「採血」「PET―CT」と定期的な検査を繰り返して五年程経った頃ようやく病院と縁が切れた。
 
 気がつけば発病してから七年が経っていた。身体も心もボロボロになってしまっていた。何とかしなくてはと思っていても家でゴロゴロしているだけだった。そのような状態で一年ぐらい経った頃、新聞の一枚の広告が目に入った。「寝たきりになりますよ」その広告の✓印をチェックすると全てに✓印がついてしまう状態だった。これはマズイ!!その広告はカーブスの体験案内だった。カーブスは一度、見学に行ったことのある所だった。元々、膝の痛みが有りそれを改善したくて行ったのだが、入った途端、聞き慣れない音楽が流れ、いくつもの器械、壁には『筋トレ』の文字、何!?何!?何!?私の中の『筋トレ』というのは男性のスポーツマンがやるものというイメージが有り私には無縁の世界のもの、やっぱり場違いな所という印象しかなく、それ以来忘れていた所だった。
 チェック印だらけの広告を持って市の公民館でやっていた体験に行った。コーチ達が親切に説明してくれ簡単な運動をやった後、お店で待ってますの口約束をした。約束したからには一度は行かなければと自分を奮い立たせ、マックスバリュー熱海店に行くことになった。
 
 二〇一八年七月。発病から八年目のことだ。最初はやはり聞き慣れない音楽、いくつもの器械、壁には『筋トレ』の文字、以前と全く同じ光景だった。いくつかの器械をやり、ストレッチを何となくはこなせた。元々、膝の痛みが有るので膝を使う器械をやった時に手を当てていたら膝にザァザ、ザァーという違和感があって、とても重たかったのを覚えている。三~四回、一ヶ月も続けば良い方だと思い通い始めてあっと言う間に五年も経っている。何でだろう!?時々、考える事が有るが未だによくわからないでいる。
 一年ぐらい経った頃に受けた市の健康診断の結果を見て驚いた。肝機能の数値がすべて改善されていたのだ、嬉しくてコーチ達に報告をしたら一緒に喜んでくれた事を覚えている。生活習慣で何が変わったかと言えばカーブスに通うようになった事ぐらいだった。また偶然にも昔の職場で一緒だった後輩も最初からカーブスに入って頑張っている姿を見たのも続けられてる一因かもしれません。
 
 私の好きな相田みつをの言葉に『一生勉強』『一生青春』が有るがカーブスは私にとって新しい事を覚えたり新しい友人が出来るそんな場所になった。入会当初から私を見てくれているコーチから「雅子さん変わったねぇ」と声を掛けてもらうと嬉しくなる。自分ではあまり感じないが体重は入会してから一〇キロ減っている。それと最近、紫色の会員証が金色になった。これもまた一つの励みになり嬉しかった。
 病気になり還暦を迎える事が出来るだろうかと落ち込んだ時が有った私が間もなく古希を迎えようとしている。これもカーブスで『筋トレ』をしているおかげだと思っている。
 
 最近、新聞などでも『筋トレ』『たんぱく質』の文字を目にする、カーブスと同じ事を言っている。私のやっている事は間違いないと確信する。今では右首の生検の傷跡だけが病気の名残として残っているが今のカーブスに通う私はそんな事があったことを忘れてしまうほど明るくて元気に運動を続けられている。
 この先、いつまで通えるのかは分からないがカーブスでの私の人生に縁がなかった『筋トレ』が週三回の仕事、私の居場所になった。カーブスに感謝、コーチ達に感謝、感謝。