義父、義母、母を見送り、はっと気がつくと自身の六十歳の退職年齢が目の前に迫っていた。退職を心待ちしていた部分もあるが、「老い」を宣告されたようで淋しくもあった。退職したら、ボランティア?シルバー人材センターに登録?県シルバー大学校入学?いろいろ思いを巡らせていた。第二の人生の為に、ヘルパー二級、福祉住環境コーディネーター二級も在職中に取得していた。
そんな時、新聞の折り込みチラシで「カーブス」を知った。初めて目にするカーブス。「カーブスって何?」教室の場所も内容も全くわからない。職場でもカーブスの話題で盛り上がっていたが、誰も内容を知らないという。そこで私が、職場を代表して、体験、見学に行く事になった。その時は、入会というより皆に報告するという役目を担っての見学だった。
見学当日、恐る恐るドアをあけた私の目に飛び込んできたのはコーチの方々の明るい笑顔。そしてマシンやストレッチに真剣に取り組んでいる会員の方たちの姿だった。コーチは丁寧にマシンの扱い方を教えてくれ、初めてでも指導を受ければ「何とかなるかも」と思わせてくれた。
帰ろうとした時、一人の老婦人が訪れた。そして慣れた様子でシューズをはき、マシンに向かい黙々と運動を始めた。私はコーチに「あの婦人は何歳になられるんですか?」と尋ねた。するとコーチは「八十四歳ですよ」と答えた。私は驚いてしまった。昨年亡くなった母と同じ歳だった。自分より遙かに年長の母と同年齢の方が、真剣にマシンに取り組んでいる姿に衝撃を受けた。母が生きていたら、二人でカーブスに通えたかもしれない。婦人を見習って、幾つになってもチャレンジする気持ちを持とう。様々な感情が湧きあがってきた私は入会を決めた。二〇一〇年十一月のことだった。教室を出る時、さわやかな感動で胸が一杯になっていた。
翌日、職場で見学の報告と入会した事を話すと、皆一様にビックリ。「第二の人生の為に頑張るぞー」と皆の前で宣誓した。
ところが、退職するつもりでいたのだが、関連施設に行ってもらえないかと打診があり二年の約束で引き受けてしまった。せっかく入会したのだから、ここで辞めるわけにはいかない。何とか時間をやりくりして、週に一回でも二回でも通い、仕事から離れ、満足のいく筋トレ、ストレッチができるまで続けてみようと思った。
体調を崩し休会した時もあったが、細々と続け、いつのまにか本来の退職から五年が経過していた。職務を全うでき責任を果たせたのは、カーブスで筋トレ、ストレッチを続けてきたからだと思った。
五年が経過し、仕事から完全に離れた私は、この世の春とばかりに、家事、カーブスを日課に充実した日々を過ごしていた。自分でも納得のいく時間の使い方をしていたように思う。
そんな中、夫が体調を崩し病院に付き添う必要が生じた。受診まで時間のある時は、その間にカーブスで運動。受診の必要のない時は、私が三十分の運動をする間、ホームセンター、本屋、あるいは車内で待っていてくれた。夫も私がカーブスに通うことを理解し応援してくれていた。
しかし、二年前、夫は検査の為入院することになった。入院が長引き、一ヶ月半を過ぎた頃、夫は「家に帰りたい。」と切望するようになった。不安もあったが、医師と相談し在宅看護に踏み切った。内科医、歯科医、看護士さんたちの心のこもった診療、看護に頭の下がる毎日だった。義姉や姪にも精神面も含めてどれだけ助けられたかわからない。
夫は看護のかいなく自宅で息を引き取ったが苦しむこともなく旅立った。在宅看護、葬儀、四十九日、新盆、一周忌と目まぐるしい日々が続いたが、無事執り行うことができた。
貯金はなくても、貯筋があったからこそ、決して十分ではなかったかもしれないが、夫の意思を尊重し、在宅で看取れたと思っている。カーブスで筋トレ、ストレッチを続けてきたことが、在宅看護を可能にしたと思っている。
朝、遺影に「カーブスに行ってきます。」と声をかけ出かける毎日。これからも、自分の為に、家族の為に貯筋を続けていこう!そう思う今日この頃だ。
入賞
「在宅看護を可能にしたのは貯金ではなく貯筋」
カーブスって
どんな運動?