仕事を退職して、母の介護に明け暮れていたある日、街で血管年齢測定をしているカーブスのコーチに声をかけられました。明るい笑顔に吸い寄せられるように血管年齢測定をして頂き、早速予約を取りました。それまで、通勤の途中で商店街を通ることはあっても、声をかけられる事はありませんでした。カーブスに対する知識も全くなく、若い人達が通うところだと思い込んでいました。メンバーになって、同じ年代の人達が生き生きと運動している姿にびっくりしました。そして私も、カーブスに出会って、自分の人生が大きく変わり始めた事に気づきました。カーブスマガジンを読んで、感動し涙しました。当時の私は、ようやく仕事を辞めてそのストレスから解放されたものの、残りの人生は、母の介護に明け暮れて自分も年老いていくだけなのかと漠然と思っていました。結婚して、四十四年間運動とは全く無縁の生活をしてきました。運動の苦手な私は、四十四年間、汗をかいて運動して筋肉を動かすことの意味をしりませんでした。だからこそ、カーブスで運動して歩いて帰る道すがら、青い空、さわやかな風、町の風景すべてに感動して、身体が軽く、まるで二十代三十代の頃のように、歩けました。こんな世界があったんだと感じました。身体中の細胞が目覚めて活性化されるようでした。そして、メンバーになって半年足らずで、体重は七キロ減りました。ウエストは、十センチも減りました。体が変われば心が変わる。心が変われば毎日が変わる。毎日が変われば人生が変わる。その言葉意味を、実感した瞬間でした。
 三年前、いつものように、ショッピングモール内にある保険の代理店で仕事をしている時に、叔父から突然の電話が入りました。六十四歳になる兄が急性心筋梗塞で救急搬送されて危篤とのことでした。兄とは、十年前の父の葬儀以来話したことも無く、疎遠でしたが病室で、息絶え絶えの兄は、娘に会いたいと言い残して、五日後亡くなりました。故郷には、八十七歳の母が一人残りました。たった一人の兄です。幼い頃に遊んだ思い出が走馬灯のように思い出され胸が締め付けられるような悲しみと寂しさで泣きました。叔父の話では、家庭も仕事も上手く行かず兄はストレスで瘦せ細っていったとの事でした。私が二十二歳で結婚して、田舎を離れてから、四十四年の歳月が流れていました。その間、田舎で両親と兄夫婦の間では、色々な確執があったようです。そのすべての先に兄の突然死がありました。円満な家庭がある私の人生と比べて、私とたった一歳違いの兄は、妻にも一人娘にも看取られる事無く逝きました。兄がこんな最後を迎える事になるまで助けてあげられなかった事が無念でした。人の人生とは何が一番大切なのかと思いました。生きていくことの意味とは何だろうと思いました。兄が亡くなった日、通勤電車から降りた瞬間私のスマホに母からの電話で、「生きていても今まで、嬉しい事も楽しい事も何も無かった」と嘆きの言葉が聞こえてきました。
 そんな兄の死と母の言葉も一つの転機になり、仕事を辞めました。ショッピングモールでの夜遅い時間帯までの仕事や、通勤時間の長さ、体力の衰えも感じて、仕事を辞めました。そして兄が亡くなって一年後、私は田舎の家を処分して、母を引き取りました。不思議なもので、実の母よりも、結婚してからの、主人の義母との生活の方が遥かに長かったせいもあるのか、母とはぶつかる事も多々ありました。私は、お金を借りた事は一度も無いはずなのに貸したお金を返して欲しいと言われたり、母が兄ばかり懐かしがる事に、いらだちを感じ、今そばに寄り添っている私を見て欲しいと思いました。離れて暮らした歳月の溝は埋めようもありませんでした。母の言葉に傷つき上手く行かない事ばかりの日々でしたが、カーブスで運動して帰って来ると何でも前向きに母と接する事が出来ました。そして私の心が変わるほどに、母との関係がスムーズに行きました。昨年は2回の心筋梗塞と脳梗塞を患い入院があり、自宅での介護が難しくなった為、医師に勧められて介護施設に入所しましたが、今は面会に行くと、私が来たことを誰よりも喜び穏やかな母の笑顔に出会えます。ようやく長い歳月の溝をうめられました。
 そしてカーブスで通い始めて、一年が過ぎ無事に母も介護施設に入所できてから、何でも挑戦してみようと思い始めました。人一倍臆病な私が、一人で海外旅行に行ってみようと思いました。今までの人生は、仕事と家族の事、負債を抱えた我が家の家計を立て直す事が最優先の人生を送って来ましたが、カーブスに出会って、何でも挑戦してみようと心が前向きになり、まず手始めに、ベトナム旅行のツアーに申し込みました。今までの人生で、一人で旅行すら行った事のない私が、パスポートを作り、Visit Japan Webのアプリを入れ、市役所から、当時は必須条件の新型コロナウイルス感染症予防接種証明書を取り寄せました。臆病な私は、成田空港まで行き、登場ゲートを確認し、手続きなどを予行練習までしてみました。それから、いよいよ旅行当日がやってきました。私が、六十五歳で初めての一人海外旅行である事を告げると、成田空港の搭乗ゲートの職員さんからは、記念の登場証明書を頂き、飛行機内では、CAさんから、素敵な手書きのポストカードとプレゼントを頂きました。そして、無事にハノイ国際空港の外で、現地案内人さんと合流出来ました。カーブスが背中を押してくれて一人で行って来られたと感じます。わくわくドキドキ、楽しい思い出になりました。その後は主人と二人で、イタリア、アメリカと行きました。
 子供の頃から学校のバス旅行で、必ず酔ってしまって辛く苦しい思い出しかありませんでした。左側の三半規管に耳石が入り込んでしまっている為めまいを引き起こしやすいようです。多少の揺れでも目眩がして、酔って吐いてしまう事も多々あります。そんなわけで、普段でも乗り物酔いするので、一生涯旅行は無理だと決めつけていました。そんな私が、カーブスに通って、体力に自身がついたからこそ、挑戦出来たのだと思います。今私は、六十四歳で無念の死を遂げた兄の分も長く生きよう兄が人生で成し遂げる事の無かった事にも挑戦してみようと思うのです。私には長男夫婦長女夫婦次女夫婦が円満に生活してくれている事、六人の孫たちが日々元気に成長してくれている事、日常の些細な出来事も、今はそのすべてに感謝が沸いてきます。カーブスに出会えたからこそ、母の介護と兄の死、この二つの出来事を乗り越える事が出来ました。そして今は、前向きに生きていくことの素晴らしさと喜びを実感しています。これからは、何か少しでも社会に貢献出来る事にも挑戦して行こうと思います。二年前のあの日、商店街で、とびっきりの笑顔で私に声をかけてくれたコーチと出会えた事に、心から感謝致します。あの瞬間が運命の一日でした。日常の些細な事にも感謝を忘れず、残りの人生を前向きに明るくカーブスを羅針盤として、歩んで生きたいと思います。