バシャバシャと波打つ海面に少し怖気付きながらも両足を縦に広げて「エイヤー」と飛び込み、ガイドの「OK」サインに応えると潜降開始。背中に命綱の酸素ボンベを背負い、耳抜きをしながら息を吐き、少しずつ海の中へと降りて行く。その途端「何これ!」と心で思わず叫んでいた。見たことの無い珍しい形をしたサメが目の前をウジャウジャと行ったり来たりしていて右往左往状態である。トンガリサカタシャーク、別名をギターシャークとも云うエイの仲間。頭の先端は長く伸びて平べったく、尾鰭、背鰭がはっきりとしている。そのサメたちに囲まれ、中性浮力を保ちながら見入ってしまう。聴こえて来るのは自分の吐く息のボコボコと酸素を吸う音だけ。
 ここはインド洋のど真ん中。珊瑚島と環礁からなる熱帯の国、モルディブ共和国の北マーレの海。その中に、私は、今、居る。
 
 今年の一月、72歳の私は同い年の夫と共にマンタやジンベェザメを捜し求めながら 色とりどりの珊瑚や魚が乱舞する龍宮城の世界を満喫しようと、船で寝泊りしながら海況に合わせ潜るダイビングクルーズを経験した。コロナ禍の行動制限は、健康寿命を考えると焦りがあり、このツアーは一年前に計画し準備万端ととのえてようやく実現したのだ。
 20人のツアー参加者の平均年齢60歳。往復の飛行を除く5日間は毎日毎日海に潜り、限度の一日3本(ダイビングの潜る数え方)、予定されていた全行程15本を全て潜ることが出来たのだ。その中には初めて体験する夜の海に潜り、ライトに浮かぶマンタを見て興奮したり、大きなジンベェザメを見つけて追いかけたのも含まれており、何とも言えない喜びと嬉しさが湧いてきて、自信となり、今でも思い出してはニンマリしてしまう。
 ツアー参加者中、一歳上の大ベテランの女性が居られたのだが、膝痛で1本で断念されたので、私達夫婦がなんと男女共にツアー者の最高齢で潜り切ったことになった。
 海中は勿論のこと、初めて会った参加者も居たのだが、スタッフや全ての人々の気配り心配りで楽しく愉快な8日間となった。見聞を広めて、無事に家に帰り着いた時の充実感は今も鮮明で、一生忘れないと思う。

 こんな日が来るなんて!夢じゃないよ、現実だよ!
 
 専業主婦だった30代の後半は、日中の手話奉仕員養成講座で学んだ後、サークルに入り耳の不自由な方々と交流をしていた。その伝で、40歳で無資格ながら中学校の非常勤嘱託の図書館員として働き始め、その後は夜間の手話通訳者養成講習会にバイクに乗って週1回通い、2回目で山梨県の認定試験に合格した。甲府盆地の底冷えのする冬の厳しい寒さに震えてのバイク、車で行く様になってからは、会場の駐車場が満杯で路駐しているとパトカーからナンバーを連呼をされ、学習を中断して移動させたりと懐かしいことが浮かぶ。
 合格後は依頼があると、聴こえない人と聴こえる人を繋ぐ手話通訳者として、講師として活動をし、聴こえない人の「通訳ありがとう」の笑顔に励まされ、もっと上を目指そうと、厚生労働大臣認定手話通訳士試験に挑戦。年に1回の東京会場に何度通ったことか。ようやく咲いた手の花。ここからがスタート。手話の奥深い魅力にはまっていくことになる。
 
 新潟に住む実家の母が、中越地震から4ヶ月後に亡くなった。お正月に帰省した時、家の前の道路のマンホールが地上に飛び出しているのを見て驚いたが、家は幸いひび割れが所々ある位で無事でホッとした。「買い物すらままならない。どこもやってないんだよ」と嘆いていた母。暖かくなる日を楽しみにしていた母。あと一週間もすれば75歳の誕生日を迎えるはずだったのに。如月の終わる頃、母は突然ヒートショックで旅立った。
 そこから父との同居生活が始まった。何一つ文句は言わず「何でも美味しいよ」と食べてくれた。川釣りが大好きだったが、知らない土地の山梨では行くことも無かったね。
 私の雇用形態が変わることになり、無資格では勤められないとのことで、日々中学校の生徒達との生活が楽しくやり甲斐があったので一念発起。横浜にある大学の夏期司書補講習に行くことを決めた。父はショートスティにお願いし、私は夏休みで空いている女子寮に入り、金曜に帰り月曜の朝に学校へ行く。そんな生活の暑い暑い夏を過ごした結果、資格を取得することができた。

 その頃から右足の付け根、股関節の痛みが段々と強まって、夜、目が覚めることも多くなっていたある日、「ちょっと!どうした?その歩き方は」と校長に呼び止められた。自分の後ろ姿は分からないが、肩を傾げ足をかなり引きずって歩いているらしかった。「直ぐに診てもらいなさい」と、有無を言わせないお言葉を頂き、意を決して整形外科を受診したのが10月中旬。診察室に入って直ぐに、レントゲンを診ていたDrの一言は「末期だね」。続けて、「手術は何時する?人工関節に入れ換える手術」とカレンダーを指しながら「この日は?」と12月13日を示す。慌てて「仕事の都合が...」と言いかけると、「そんなこと言っていたら、手術を待つ人が沢山居て、何時になるか分らないよ」とも。そして運命のお言葉が放たれた。「あんた、"人生変わるよ"」と。どんな風に人生が変わるのか...。仕事のこと等諸々吹き飛んで、頭は真っ白になっていて「お願いします」と言っていた。
 
 それからが大変だった。夫に電話し経過を説明すると、余りの急な転回に驚いてはいたが納得してくれた。校長に「退職覚悟で手術をします。」と報告すると「大丈夫だから受けなさい」と言ってくださった。運良く休職中の代替司書も見つかり、冬休み前の忙しい時期なのに、生徒や教職員のご理解をいただいて、安心して入院、手術を受けることが出来た。
 翌日からリハビリが始まった。動かしても1mmも上がらない足で何とかベッドの端に腰かける。立つ。歩行器に身体を預けて歩く。階段を上ったり下ったり。リハビリ時間外では、一人で病棟を歩く練習もし、歩行器が杖に変わる頃、退院の許可が出た。本当は、入院予定は三週間だったのだが、年末年始が休診の為、家に帰りたいと二週間で退院した。その後のリハビリ通院には自分で運転して行ったが、先ず車の乗り降りに難儀した。足が上がらず、どこかにぶつけ様ものなら痛くて痛くてたまらなかった。頑張って、最初三ヶ月の休職期間を二ヶ月に減らすことができたのだが、ちょっと笑えるDrとのやりとりがある。
 手術の半年程前にカーブス湯村のプレオープンの広告を見て体験し、即入会していた私は、術後早く治りたい気持からカーブスに行こうとするとDrは「病院のリハビリが先」と。二月に仕事復帰。四月からカーブス再開。先頃プラチナカードを頂いた。10年経過の証し。何よりも私の足が証明している。カーブスのお陰で歩ける!痛みも無い!気持ちも前向き!本当に人生が変わった!
 60代でダイビングCカードを取得し、カーブスに入会、人工股関節置換術を受けた私。10年後の今、「明日の自分に驚く」を実践中。