「和子さん、今日も来られましたね。無理しないでやっていきましょう。みんなの目標ですよ」とコーチのやさしい言葉でカーブスの一日が始まります。
 私とカーブスとの出会いは「やらなければ」という積極的な意気込みがあったわけではありませんでした。近くに住む一番若い妹に勧められ、車に乗せてもらい「やってみようか」という軽い気持ちでした。
 
 東京から戦時中に宇都宮に疎開したものの、父は召集、宇都宮大空襲で戦火の中、逃げ場を失い、下水溝をつたって汽関車の下にもぐりこみ、大人の人達に水をかけてもらい助かったのが十二才でした。家は焼かれ、父はいないし母と子供四人、私が長女で一家を支える立場でした。終戦で父が戻りましたが感染症の結核で死亡という中、無我夢中で定年まで働きました。結婚し二人の息子を育て上げ巣立って行った後、これからの自分の生き方を考えた時、働く事が趣味のような生活をしてきた私には何も見つかりませんでした。
 苦しい時に多くの人達に助けられた事を思いかえし、ボランティアで生きていこうと決めました。そんな時、市主催の市民大学ボランティア養成講座で勉強し、市民大学の企画運営にグループで二十年以上係わってきました。
 今、振りかえって考えた時、私達の若かりし頃は、健康についての情報など何もありませんでした。一日一日自分の生活を守っていくだけで、健康について考える暇もありませんでした。今のように車もなく、免許を持たない私は、自分の足で公共機関を利用しての移動で何の不自由も感じませんでした。カーブスに行くまでは、自分の足でどこにでも行けた生活が健康であると自負してきました。車を持たない生活に感謝する気持ちでした。
 
 勤務中ストレスで五十五才の時、胆のう摘出手術を受けましたが、その後異常なしで、病気にもならず、元気に生きてこられました。七十九才の時、妹に勧められ通い出したカーブスでも、まわりの人達と同じようにマシンやストレッチも出来ました。これも車を持たず自分の足で移動していたお陰と自分なりに考えていました。
 通い出して八十五才頃から、買い物に出かける足に異常な痛みを感じるようになりました。自分の考えもゆらぎ出しました。今振りかえってみると、歩いているだけでは年齢と共に減っていくものがあると云う事が理解されていませんでした。
 昨年、整形外科で検査を実施したところ、筋肉質の体で「何をやっているのですか」と聞かれました。大腿部の骨密度が少し低いという事で薬をいただきました。カーブスに十二年通っている事によって、自分では気づかなかったけれど、蛋白質を朝から十分に取り、マシン、ストレッチを続けてきたことの成果である事に感謝しています。
 女学校の同級生が一人へり、二人へりというなか、カーブスに通えることの出来る自分がどんなに幸せなのか感謝しています。
 通い始めた時より十二キロも体重は少なくなり、間食も減りました。カーブスマガジンに書かれている通りになってきた自分がとてもうれしいです。今の世の中、始めるとすぐに効果を求め過ぎていないでしょうか。続けていたから結果が出る事が多いのです。若い人達がすぐやめてしまうようですが、九十才になってきっと後悔しますよ、どうぞ続けてください。
 介護認定も受ける事なく夫婦二人で暮らせる幸せがカーブスにあったとわかり、筆を取った次第です。北海道に住む息子夫婦、孫、ひ孫に杖を使っても行けるように通い続けたいです。