私は交通事故にあって、救急車で病院に運ばれて集中治療室にいた時、当時高校生と中学生の子が先生にカバンも何もここにおいて行っていいからすぐお母さんの所に行きなさいと言われたら泣きだしたそうです。私はくも膜下にもなっていて、先生からもうだめかもわからないと言われて、家族はお葬式の準備もしていたそうです。
 何週間経って目を覚まして、今日何日かわかりますか、ここはどこだかわかりますかと言うので、上を見たら病院だとわかったけど中学生の子どもが高校へ行っている日にちを言っていました。下に売店があるのをわかっていたので、飲み物か何か買いに行こうと思って下に行ったら、自分の部屋がわからなくなって、部屋の鍵を閉められてしまいました。
 それから今の大きな病院を紹介されて、脳外科の先生にあなたすぐに言語に行きなさいと言われて、先生から初めて高次脳機能障害ですと言われました。

 今まで出来ていたことが何も出来なくなっていたんです。自分の好きな刺繍も、編み物も、前は展覧会に出せたのにと思ったら悲しくて泣くことしかなかったです。毎回子供の車で送ってもらって、先生と一緒に休憩をとりながら、まちがいさがしや、幼稚園生がやるようなつみきや、小学一年生の足し算や引き算などいろいろなことをやっていました。
 事故前は元気でボランティアの仕事で涸沼や大洗や土浦などいろいろな所にお掃除に行っていました。先生が今は休みなさいと言うのに歩くと、頭が痛い、気持ちが悪いと言ってもどして、先生に静かな所に行って寝てなさいと言われ寝ていました。その時は、音も人混みもだめでした。
 そのあと三年後にあの東日本大震災が起きたのです。今年一月一日に能登半島の地震があった時は体の震えが止まりませんでした。病院の先生は、出来なくなってしまったことはしょうがないから、楽しいことを見つけて焦らずゆっくり行きなさいと言っていたけど、初めは楽しいことなんかないでしょうと反発していました。今の私なら病院の先生の言葉がわかるような気がします。

 リハビリを経て村の支援センターに行くようになっても、初めは訳のわからないこと言ったり、静かな部屋で寝ていました。発作を起こして救急車で何度も運ばれたことがありました。お財布を拾ってお財布の中に、山新のカードと、どこかのクラブのカードと外国の紙幣と三千円が入っていて、警察署に届けた途端、こわい、こわいと言っていたら、そこに認知症のような人がいて、たまたま支援センターの人が来て、私もなごみに連れて行ってと言って、連れて行ってもらいました。
 次の日支援センターに行ってお昼を食べていたら、支援センターの人が体が震えているので早く病院に行ったらと言うので、病院に行ったら入院するかと言うので、私はやだ帰ると言って帰って来ました。次の日支援センターに行って言ったら、支援センターの人がそうだと思ったんだ、普通じゃなかったもんと言っていました。

 今の私は朝から一日は動けません。失った物もたくさんあるけど、カーブスと出会ったことで友達も増え、畑作りも出来るようになって、病院にも月一回電車とバスで行けるようになりました。カーブスに出会わなかったら寝たきりになっていたかもしれません。私が休むとコーチが「久子さんが休むとみんなさみしがっているよ」と言ってくれます。休んだ後行くと、みんなが久しぶりだね、どうしたのと言ってくれます。
 プロテインを飲んでキントレをすると、筋肉が増えて脂肪が落ちて、体重が減りました。私はこれから焦らず、私のペースで前に向かっていきたいと思います。私は大変な思いをしたからこそ、生活保護の人や子供食堂の人たちに、おいしい野菜を届けたいと思っています。私のペースでカーブスと野菜を作って楽しんで前に向かって行きたいと思います。
 私を助けてくれた病院の先生方や友達、村の職員のみなさん、カーブスのコーチありがとうございます。私はまだまだいろいろなことがあると思うけど宜しくお願いします。これから焦らず、ゆっくり前に向かっていきたいと思います。寝たきりにならないように、頑張るんじゃなくて楽しんでいきたいと思いますので、みなさん宜しくお願いします。後ろを振り返っても何もいいことないので、これからは楽しいことを見つけて進んで行きます。カーブスのみなさんに出会ってかんしゃです。