2011年3月11日14時46分、東日本大震災が起きた。今から10年前のことである。この日を知らない日本人はいないだろう。もちろん私もその一人だが、この日時を聞いた時、私には連鎖的に思い出さずにはいられないもう一つの出来事がある。それは自分が震災の前夜、脳出血で入院した記憶だ。当時、京都で3人の子供たちと暮らしていた私は、その数日前から頭痛がし始め、2日前にはひどいめまいと嘔吐に襲われた。そして3月10日、長女に付き添われて家の近くの内科を受診し、CTの画像に脳出血が見られるということで、急遽救急車で日赤に搬送されることになったのだ。そんな大変な事態になったというのに娘に「お母さん、救急車に乗るの初めて。デジカメ持ってくれば良かった。」と呑気なことを言う私に、娘は心細げに「私もだよ。」と答えた。そしてその夜、そのまま入院。その当時子供たちは全員大学生で、長女からの連絡で集まった3人が心配そうに病院の長椅子に腰かけている。ベッドから見えた彼らの様子が可哀そうで、私は看護師さんに「あの子たちに何か食事を取るように言って下さい。」と言った。震災はその翌日、娘から連絡を受けた熊本の母が、飛行機で病院に向かっている途中に発生した。私が震災のことをおぼろげに知ったのは、数日後同じ病室の方とご家族との話を小耳にはさんだ時だが、目がテレビの電波を受け付けなかったので、はっきりと認識したのは一週間後に母が持って来た新聞の写真を見た時だ。あまりの悲惨さに絶句したのは言うまでもない。
私の脳出血は、先天的に脳にあった血管腫が破裂したために起きたもので、再発を防ぐためには長時間に及ぶ開頭手術をして腫瘍を取り除く必要があるとのことだった。その手術には、今はない後遺症が起きるリスクがあり、片耳が聞こえなくなるとか片側の顔の神経が麻痺するとかいった可能性があると言う。それはリハビリをしても完全に元通りになる保証はなく、私が、再出血が起きないことの引き換えにその障害を受け入れることが出来るかどうか、しかも私の血管腫は2つあり、今回出血した方の血管腫は手術で取り除けるが、もう一つの方の摘出は場所的に不可能という説明だった。ということは、最悪、受け入れがたい障害を抱えた上に、もう一つの血管腫が破裂するということも考えられるわけだ。病院の先生方も、手術推進派と経過観察派に分かれ、それぞれが連日のように私の病室に来てご自分の意見を主張される。家族の意見も二つに割れた。もうどうしたら良いか分からず、あみだくじで決めようか、それともその時ちょうど開催されていた春の甲子園で福岡県勢が勝ち残っていたので、福岡が優勝したら手術を受けようかと思うまでに私は追い詰められた。常時襲ってくる吐き気と闘い、洗面器を横に置いた状態でそんなふうに発想する私は、つくづく楽天家だ。その後最終的に私が経過観察に決めた理由は、夫が手術することを反対したからだ。他の家族は私がどんな障害を背負っても、可哀そうにと思うだけだが、夫はそうなってしまった私の面倒を生涯見なければならない。その夫が反対する手術を受けることは出来ない、そう思ったのだ。
そして数ヶ月後、私は退院した。実は私には海外に留学したいという夢があった。若い頃から海外に憧れ、行きたいと思っていたのは私なのに、親の反対で実現せず、私が日本で結婚し2歳違いの3人の子供の育児に奔走していた頃、妹はメルボルンンで国際結婚をした。こんな不公平が許されるだろうか。それで、子育てが一段落したら妹のいるメルボルンに留学すると言うのが私の夢となったわけだが、そんな時長女が入学した大学に、全員が1年間英語圏の国に留学出来る学科があることを知った。それで次女の受験と同時に私も受験し、めでたく合格したというわけだ。1年が経ち、メルボルンへの留学が決まった矢先に脳出血を発症。再発の恐れのある私に、「もう留学は諦めたら?」と言う友人もいた。どちらにしても大学は1年間休学しなければならなかったが、私は諦めなかった。手術を勧めた先生は、「手術をしなければ疲れやすく、ゆっくりしか動けない。」と言われたが、私は絶対に克服すると心に誓った。こんなことで諦めるものかという気持ちが沸々と沸いた。再出血の可能性は年5%なので、この数年のうちに起きる確率は低い。だが、最初の年は95%の確率で元気でもその翌年はその残りの5%。またその次も同じ。そんな風に毎年元気でいる確率が下がっていくので、30年以内に再発する可能性はかなりになる。高齢での手術は難しいが、まだ49歳の今なら手術出来るというのがその先生の主張だった。だが私は、私にとっては今からの10年はその後の人生よりずっと重い。これからの10年で再発する可能性がそこまで高くないのなら、それに賭けよう。障害を背負ってしまったら、留学出来ないではないかと思った。そして初志貫徹、とんだ弥次喜多道中ではあったが、無事1年の留学を終え、大学も卒業した。そしてこの3月、無事に発症後10年を迎えたのだ。私は病気に勝った。
大学卒業後、父の会社で働くために熊本に行き、母にカーブスのことを聞いたのが、カーブスとの出会いだ。人間、夢を果たせたのだから、後はおまけの人生とはなかなか思い切れるものではない。確かに夢は叶ったが、日本人女性の平均寿命まではまだ30年以上もある。私がもっと長く生きたいと望んでも罰は当たらないだろう。1ヶ月後、数ヶ月後、半年後、1年後、今となっては「変だと感じたらいつでもいらっしゃい。」ということで無罪放免となった定期健診では、「何をしてはダメということはありません。無理をせず、規則正しい生活を心掛けて下さい。」と言われ続けた。そんな私にピッタリなのが、カーブスの健康体操というわけだ。生活にカーブスを組み入れることで、規則正しさが生まれるし、私は今身体に良いことをしているという喜びもある。どんなに筋トレをしても、脳出血の再発に直接の関係はないだろうが、運動が長寿に繋がらないはずはない。きっとこれで私は人並みに生きられると信じ、私の精神衛生上とても良い日々が続いた。
その後福岡に戻り、諸事情で一旦退会した私であったが、コロナ禍によって自宅にこもりっきりの日々が続き、コーチからの案内の電話で「おうちでカーブス」を始めることにした。運動の必要性を再確認したことプラス、人と関わることの大切さを思い知ったからだ。画面越しではあっても、私のことを気にかけてくれる人がそこにいると感じるのは、嬉しいものだ。ぜひともこの喜びを誰かに伝えたいと思った時に浮かんだのが熊本の母。「熊本走ろう会」に入って今尚フルマラソンを走る85歳の父に比べて、82歳の母は弱々しい。そんな母でも「おうちでカーブス」なら続けられるのではないか。動きが遅くても「おうちでカーブス」なら次の人を待たせる心配もない。コロナ禍が一段落したら熊本に行き、母に話してみよう。私が病気をした時には肝を冷やしたであろう母には、いつまでも元気でいて欲しい。
長い別居期間を送るうちに気持ちが離れてしまった夫とも、お互いに生きていれば、いつかきっと和解する日も来るだろう。その日を無事に迎えるためにも、日々カーブスの健康体操に励もう。カーブス発行、長生きの片道切符を握りしめて。
佳作
「カーブス発行 長生きの片道切符」
カーブスって
どんな運動?
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