「残念ですが、この通り呼吸も心拍も止まっていますので...」
主治医の先生がうつむきながら、無情にもゼロになった心電図モニターをこちらに向けています。父の入院していた病院から連絡を受け、あわてて駆け付けた私と母に突き付けられたのは、あまりにも悲しい現実でした。
「まだあったかいんだよ!まだあったかいんだがねぇ!!」
母は半狂乱になって、父に取りすがっていました。
私は呆然として、その場で腰を抜かしてへたり込んでしまいました。不思議と涙は出てきませんでした。きっと目の前で起きた出来事が、信じられなかったのだと思います。
振り返れば私の介護生活が始まって、早や6年になりました。最初に父が倒れたのは、私が結婚して半年経った頃です。当時、私は職業訓練校に通っていました。父は持病の心筋症で倒れ、緊急入院してしまったのです。
幸い父は、カテーテル手術を受けて、すぐに退院することができました。しかしその3か月後に母も急性膵炎で入院し、生死の境をさまよう事態となってしまいました。たとえ治ったとしても、以前と同じ生活を送るのは難しいだろう。そう主治医に宣告された私は、思い切って訓練校を辞め、両親の介護に専念することにしたのです。
ちょうどその頃に、訓練校のクラスメイトに言われたのです。
「介護はたいへんだよ。今のうちに体力をつけておかなきゃね。」
確かにこの頃の私は、体調不良に悩んでいました。体力不振で何をしてもすぐに疲れてしまい、生理痛も酷く、おまけに原因不明の右半身痛で家事をするにも支障が出るほどでした。友人がカーブスに通っていたこともあって、実家近くのお店を紹介してもらい、すぐに入会を決めました。30分で済むなら、飽きっぽい私でも続けられると思ったからです。
その後母は何度か手術を繰り返し、だんだん元気になって、要介護認定から抜けることができました。しかし父の方は、それに反比例するようにどんどん新たな病気が出てくるようになってしまったのです。
心筋症の次は脳梗塞を患い、脳梗塞の次は原因不明の全身疼痛にさいなまれ、最終的には肺炎で緊急搬送され、入院先の病院で、重度のアルツハイマー型認知症と診断されました。
病気が増えるのに比例して、私の介護生活も苛酷になっていきました。はじめは実家の家事や、病院の付き添いをするだけで済んでいたのです。しかし父は、だんだん自力では動けなくなってしまい、そんな父を起き上がらせたり、車いすに座らせてトイレに連れて行かせたりするのが本当に力仕事でした。
でも私はこの仕事を精神的には辛く感じても、体力的には特に辛いとは思いませんでした。なぜならカーブスで筋力をつけていたおかげで、小柄な父を何とか動かせる腕力がついていたからです。悩みの種だった生理痛や右半身痛もいつの間にかなくなり、自宅と実家の家事も普通にこなせるようになっていました。
ある日いつものように父の体位変換をしていた時に、こう言われました。
「お前は力があるなあ。アヤがいてくれて、本当に良かった」この一言で、今まで筋トレを続けてきて本当に良かったと、全てが報われた思いがしました。
しかしそんな在宅介護も、とうとう限界がやってきました。ある夜に、母が父を車いすに乗せようとしたら、腰を圧迫骨折してしまったのです。もう父を自宅に置いておくことはできない。苦渋の選択の結果、父を老健施設に入所させることにしたのです。
施設に入所した父は、以前の穏やかな性格から180度変わってしまいました。強烈なせん妄状態を起こし、とにかく家に帰りたい、家族に会いたいと叫んで暴言を繰り返し、ついには職員の方に暴力までふるうようになってしまったのです。
その矛先は面会に行った私にも向かい、家に帰せ!と怒鳴る父をなだめようとすると、お前は俺の娘なんかじゃないと罵倒され、危うく殴られそうになったこともありました。母は腰痛のために動けず、姉は遠方に住んでいるので頼ることもできない。この頃が、最も孤独で辛い時期でした。
でも父は、ある日食べ物を気管に詰まらせてしまい、誤嚥性肺炎を起こして再入院してしまったのです。
その診断を聞かされた時に、私は絶望のどん底に突き落とされた思いがしました。せっかく治ったはずの肺炎を、私が再発させてしまったと感じたのです。もっと違う施設に預けていれば、もっとストレスを与えない方法を選んでいれば、こんな事態にはならなかったのではないかと、私は自責の念にかられました。
父が再入院した頃は、ちょうど世間がコロナ禍に見舞われてしまい、許可された日に20分しか面会できませんでした。日に日にやせ細り衰弱していく父を、それでも私は贖罪の思いから、可能な限り病院に足を運び、顔を見せました。
生前の最後に会ったのは、亡くなる3日前でした。私と夫の二人でお見舞いに行き、他愛のない雑談を私は父に話しかけていました。すると突然、父がその細い腕を夫に伸ばし、こう言いました。
「アヤを...頼みます」
衰弱が進み、もう自力では話すこともできないはずの父が、はっきりと聞き取れる声でそう言ったのです。きっと私のことが心配で、ないはずの力を必死で振り絞ってくれたのだと思います。夫は何て返事をしたらいいのか分からず、一瞬躊躇した後に黙ってその手を取りました。これが、父の最後の言葉になりました。
それから3日後、母と実家にいた時に病院から電話がありました。父の容態が急変したので、今すぐ来てほしいとのこと。あわてて二人で病院に駆け付けましたが、私たちが病室に着いた時は、もう父は息を引き取った後でした。
その後の葬儀のことは、ほとんど記憶にありません。気が付いたら父は真っ白な骨になり、小さな骨壺に入れられていました。その骨壺を抱えると、介護していた頃はあんなに重かったのに、こんなに軽くなっちゃったんだなあと思うと、あまりの虚しさに涙が止まりませんでした。
でも私は、父が亡くなって一週間でカーブスに復帰していました。体を動かして気晴らしをしたかったから、というのもありますが、残された母をこれから支えるためにも、せっかくついた体力と筋力を落としてはならないと決意したからです。
よく世間では、後悔のない介護をしましょうと言われますが、それは嘘です。どんなに頑張って介護したつもりでも、亡くなった後では、もっとああすれば良かった、こうすれば違う結果になっていたのではないかという後悔は、必ず付きまとうものだと私は思います。
後悔のない人生などありません。でも私は、後悔を残すほどの介護ができました。もしカーブスに通っていなかったら、体調不良の私はきっと何もできず、そちらの方がよほど悔いたに違いありません。
私が日々の介護で、どんなに暗く沈んだ顔をしていても、いつも明るく出迎え、笑顔で話しかけてくれたコーチの方々には、感謝の念しかありません。皆さんがいてくれたから最後まで体も心も折れずに、父を最後まで見送ることができました。本当にありがとうございます。
いつか私の人生も終わりを迎えます。あちらの世界に行って父に再会した時に、お父さんのおかげで頑張って生ききれたよ、と胸を張って言える人生を送りたいです。そのためには、やっぱり筋力が必要ですよね!カーブスの皆様、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
入賞
「カーブスで支えられた私の介護生活」
カーブスって
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