私は、祖父母が小学校教師、父は高校教師といういわゆる教育一家の長女として京都に生を受けました。大学を出て博物館に勤めたものの途中で教師になりたくなり、結婚を機に奈良に居を移し、高校の講師になりました。翌年採用試験に合格、はれて教諭になった時には28歳になっていました。
私が父と同じく高校の国語の教師になったことを、父は本当に喜んでくれました。その後、長男を出産、7年後には長女を授かり、教師の仕事、家事、育児に追われ、毎日毎日気を抜けない日々を過ごしてきました。どんなに忙しくても、仕事を辞めようと思ったことはありませんでした。それこそ先祖から受け継いだ「教師DNA」が私の中でめざめ、活性化していたのでしょう。
時々実家に帰ると、大学教授に転身した父が私を待ち構えています。そして私に言うのです。「岩波新書の大野晋の新刊は読んだか?」自分と同じ国文学を学んだ私とブックトークをしたかったのでしょう。実家に帰る前には必ず新刊の新書をチェックして、慌てて購入、読み切って父の口頭試問に備えていました。俄勉強をする私を家族は笑いました。
けれども、「読んだよ、お父さん。著者の新説、面白いね。」と答えた時の、父の我が意を得たりといったにこやかな表情、あの顔が見たくて、私は読み続けました。
中高校時代は水泳で鍛えていたので、体力には自信がありました。食事も好き嫌いなく、しっかり食べます。就職しても体を動かしていたのに、出産後、運動から遠ざかってしまいました。太り始め体が重くなっても、中年太りかなぁと、いつしか自分の体型の変化を受け入れるようになってしまいました。30代の半ば頃から、肩こりや眼精疲労に悩むようになり、定期的に整骨院に通うはめに陥りました。行けば凝りがとれ快適なのですが、しばらくするとまたひどく凝って、とくに採点の後などは耐え難いほどでした。
私が37歳の時、父は69歳で、47年間の教職生活にピリオドをうち、悠々自適の生活に入りました。好きなだけ本が読めると喜んでいました。読書に倦んだ時には、近くの賀茂川べりを散歩、帰りになじみの飲み屋でいっぱい引っかけて帰ることもあったようです。
大学を辞めた時に、市民大学講座などの講師まできれいさっぱり辞めました。元気だから続ければいいのと思いましたが、本当に長く働いてくれたので、自分の好きなように余生を過ごしてくれればいいと思い直しました。
40代は教育相談や特別支援教育の勉強などに精力的に取り組みました。父は加齢とともに散歩に出かけなくなり、じっとしていることが多く、本もさほど読まなくなりました。実家を訪ねても「あれは読んだか」と言わなくなりました。なんとなく不機嫌な様子でいることが多くなりましたが、歳のせいかとあまり気にしませんでした。静かに病が忍び寄っている徴候だとも知らずに。
48歳の時には教育論文のコンクールで優良賞を頂戴し、東京で表彰を受けました。これまでの教育実践を綴った実践論文が評価され、賞をいただいたことは、大きな喜びとなりました。さらに翌年には、県から優秀教員としての表彰を受けました。ただちに帰って認知症の萌しのあった父に賞状を見せたところ、とても喜んでくれて、「偉いなぁ、ようやったなぁ」と頭を撫でてくれました。本当に嬉しかった。褒められるということが、大人になっても、こんなにも気持ちがよくて、頑張ろうという気持ちをかき立ててくれるものなのだと改めて思い知りました。
50代に入ると、仕事をしながら夜間大学院に通う生活に突入、2年目の修士論文執筆の時期には、眠い目をこすりながら夜中に読んだり書いたりするため、栄養補給と称してコーヒーとキットカットを大量に摂取、体重がさらに増加、立って下を見ると腹部のふくらみのために足もとが見えないという有様でした。体重は20代の頃からは16kgも増えていました。「これじゃ、だめだ」と思いつつ、何も手を打ちませんでした。
そんな生活に転機が訪れました。人間ドック受診の結果、血糖値が高く、脂肪肝もあるため医師より減量するよう強く忠告を受けました。その矢先、転勤の辞令が下り、環境が大きく変化しました。これをきっかけに甘いもの断ち、昼食セーブを敢行、するすると体重が落ち13kgの減量に成功しました。1年後には脂肪肝も治癒しましたが、徐々に甘いものを解禁したせいか、血糖値は下がりません。それに廊下を歩いていて、何もないところでこけたりする。これは筋力の衰えだと思い、なんとかしようと早朝のウォーキングを始めました。朝4時半に起きると朝食準備をしてすぐに歩く。体はしゃっきりするし、季節の移ろいを感じることもでき、日課として定着しました。でも、肩こりや背中痛は相変わらずでした。
父は徐々に認知症が進行し、徘徊を繰り返すようになり、やがておしめが必要になりました。介護する母の体力や気力を考え、父をグループホームに入居させました。聡明で理知的、私にとって理想の男性であった父は、娘を忘れてしまいました。退職後、社会との繋がりをふっつり絶ってしまったからでしょうか。父の脳が萎縮して人格が無残に崩壊してゆく様は見るに堪えませんでした。私は父の娘。私の老後にもこんな末路が待っているかもと思うと、恐怖で背筋が寒くなりました。やがて父は寝たきりになり、食べ物の嚥下もできなくなり、水も飲めなくなりました。私は仕事を終えた後、何度も京都のグループホームに付き添いに行きました。私が53歳の春、私の泊まった夜に、父は86歳を一期にあの世へと旅立ちました。外は、桜が満開でした。
父が亡くなって半年たった頃、職場の同僚から「カーブス」を教えられました。職場から車でわずか5分です。町中でときどき看板を見かけていましたから、なんとなく知ってはいました。よく聞いてみると、「筋力をつけて、元気に生きる」という目標設定が、自分の考えていたこととぴったり合致しました。懸命に生きた父の最期が、すべてを失ってしまう形になったことが残念でなりませんでした。父の生き方を見本にしていた私は、そこだけは嫌でした。父の後を継いでいくには、健康な体と前向きな心が必要なのです。そこで、早速カーブスへ体験に行き、あまりにも爽快だったので、すぐに入会しました。
それから2年半。仕事帰りにせっせと体を動かしています。体の変化は劇的でした。肩こりや背中痛はすっかり改善し、重いものも持てるようになり、階段の上り下りも軽快にできるようになりました。カーブスの壁面にある「体が変われば心も変わる」というのは本当なのだなと実感しました。加齢による変化や衰えを仕方がないことと諦めていたのに、今はストレッチの最後に天井を見上げた時にある「今日も来られましたね。頑張った自分をほめて。」という言葉や、なによりコーチの皆さんの溌剌とした姿に大いに元気をもらって、活動的な日々を送っています。
教育の世界も世代交代がどんどん進んでいます。職業人としての私は、もう残りわずかですが、自分が継承してきたものを次世代の若い先生方に引き継ぐべく、そして父がなしえなかったこと-健康寿命を保つ-をするべく、これからもカーブスで体づくりを怠らず、心身ともに健康で自立して生きていきたいと思っています。
ありがとう、カーブス。がんばれ、私。
佳作
「父が教えてくれたこと」
カーブスって
どんな運動?