私は、今、看護師をしています。最初に外科病棟に配属されました。正直、とても辛かったです。ガン患者さんがほとんどでしたが、まだ「告知」する時代ではなかったので、夜勤の時、男泣きされ「頼むから本当のことを言ってくれ!俺はガンだろう?」と詰め寄られたこともありました。私は、自分の無力さに打ちひしがれました。 しかし、プライベートは充実していました。私は踊ることが好きで、賛美の踊りを振りつけては教会で踊っていました。仕事は、外科病棟の後、小児科病棟、外来(救急救命センターと呼吸器センター兼任)と変わりましたが、行けと言われた場所で一生懸命働きました。すべてが順調でした。あのときまでは・・・。
あの日、私は救急救命センターの日直をしていました。心筋梗塞と呼吸不全が同時に搬送されることになりました。私は、もう一人の看護師と心筋梗塞の人につくことになりました。その人は、結構大きな発作を起こしたようで、失禁しており、畑仕事の途中だったのか泥だらけでした。あまりに汚かったので、服を脱がせ、身体を拭きました。今、思うとそれが悪かったのです。突然、再発作を起こしました。医師は叫びました。「キシロカイン!モルヒネ!」と。私は、モルヒネの手配に走り、もう一人の看護師がキシロカインの静注をしました。と、そのとたん、その患者さんは激しく痙攣し、泡を吹き、心肺停止してしまったのです。何が起きたのか、わかりませんでした。必死で心臓マッサージを繰り返しましたが、ついにその人が蘇生することはありませんでした。
医師が、家族に説明している間に、私は記録を整理し、使ったアンプルの数を確認していました。その時、見つけてしまったのです。10%のキシロカインの空アンプルを・・・。看護師になった時、絶対やってはいけないこととしてまず教えられることが、10%キシロカインの静注でした。嘘でしょ?と思いながら、もう一人の看護師に恐る恐る聞きました。「これ・・・」。彼女は明るく、「あ、それ半筒ずつ打ったよ」。その時の私の気持ちは、今でも忘れられません。医療事故だ!という気持ち、見なかったことにしたい気持ち、くったくなく「打ったよ」という彼女への怒り・・・一瞬のことですが悩み、そして医師に真実を告げました。「なんで、もっと早く言わない!」と怒鳴られました。もう一度、家族に説明しなおししましたが、息子さんが「じゃあ、親父は病院に殺されたんですね!」と叫ぶように言う声・・・耳から離れませんでした。医療事故でしたので、警察も入り、現場検証・事情聴取も受けました。
一週間後、突然私は激しい無気力感に襲われました。何が悲しいというわけでもないのに、涙が止まりませんでした。精神科に連れて行かれ、「医療事故によるPTSD・抑うつ状態」と診断されました。結局、5週間休み、病院を辞めました。しかし3か月目にひどいフラッシュバックをおこしました。医療事故は私には責任がありません。たまたま第一発見者だっただけです。でも、その時の私は、人一人死んでいるのだ・私が生きているわけにはいかない・死んでお詫びをするのだ・・・そう思い込んでいました。
実家に戻ってきても、私は死人同然でした。生きていくのはとても辛いことでした。心療内科のドクターは黙って私の話を聞き、最後に「鬱が隠れているね、お薬だすよ」と処方してくれました。でも、救急車の音・男の人の怒鳴り声・早く早くとせかされることでフラッシュバックは起きました。私にとって、心療内科と薬は欠かすことができないものになったのです。仕事は、やはり看護師をすることにしました。精神安定剤は限界まで飲んでいました。副作用の眠気やだるさを取るために、栄養ドリンクも欠かせませんでした。十年頑張りました。しかし限界を感じ、少し、休むことにしました・・・そう決めてから三日間、私は眠り姫のように眠り続けました。本当に疲れ切っていたんだと思います。
そんなある日、カーブスの広告が入ってきました。思い切って行ってみることにしました。実家に戻って10年。私は、最高で20キロ太りました。なんとか、10キロは落とせたのですが、あと10キロ、何をしてもどうにもなりませんでした。踊りたくても、10キロの肉を抱えていては、腰も膝も悲鳴を上げます。もう一度、踊りたい・・・私の目標いえ、執念でした。
カーブスはとても感じのよいところでした。コーチは明るいし、通っている方たちがとにかく皆、前向き。毎日時間を決めて通いました。はじめは時間つぶしでしたが、だんだん筋肉をつけることの重要性がわかってきました。そして、自分の身体がいかに、「肉」に埋もれているかわかるようになりました。しばらく、通ううちに筋肉と贅肉に「肉」が分かれ、これを鍛えこれを落とすのだという意識が芽生えました。そして、よく笑うようになり、泣くようになりました。感情が豊かになっていくのが自分でもわかりました。
ある時、コーチの一人が、「10キロ痩せました!」「おしりが小さくなりました」と自分の成果を書き出し貼っていました。その時、私は2キロしか落ちていませんでした。こんなに頑張っているのに、私2キロ?あの人10キロなのに?・・・正直面白くありませんでした。
そんな時、カーブスの雑誌の特集に、もっと自分をほめましょうというのがありました。その中に、悪い例として「あの人は10キロ落ちたのに、私は1キロ・・・」これは駄目!というのがありました。私のことを言われているみたいで恥ずかしかったです。それからは、心を入れ替え、自分をほめ続けました。毎日えらいね、2キロも落ちてすごいね、確実に筋肉ついているよ、よかったね・・・不思議ですが、それから体重が落ち始めたのです。
一年たち、今の病院に好条件で就職することができました。五階建ての病院ですが、職員はエレベーター使用禁止です。カーブスで大腿四頭筋や臀筋を鍛えてあったので筋肉痛はでませんでした。病院で働くようになって、カーブスが「気」がよい場所であるということがわかりました。病院は老いの悲しみと死ぬに死ねない苦しみに満ちています。カーブスに来ると、生きる喜び・老いに立ち向かう意気込みを感じます。病院の悪い気をカーブスで汗と共に流す日々が始まったのです。
勤め始めて4カ月、カーブスに入会して一年3ヵ月、私は10キロのダイエットに成功しました。15号だった洋服は9号がはいるようになりました。薬も一切断つことができました。
カーブスのコーチに心から感謝しています。状態のよい時も悪い時も励まし続けてくれ、私が楽しい夢を描けるように支援してくれたこと、私の成果を自分のことのように喜んでくれたこと、・・・本当に感謝しています。
野田裕子、54歳、独身、これからが青春です。楽しい夢を描きながら、毎日、仕事に、プライベートに忙しくしています。もちろん、カーブスは欠かせません。私のエネルギーの元です。筋肉万歳!貯筋万歳!です。