2014年晩秋、夫が北アルプス穂高岳の屏風岩で遭難死した。いつものように「無理せず行ってくるよ」と書き置きを残して。
年が明けた3月母が死去。夫の死からわずか5か月。彼の死がまだ整理できていない中での母の死だった。
今振り返ると夫の死から3年間程どう過ごしていたのかはっきり思い出せない。「これではいけない」と奮起させる契機があったのかもはっきりしない。が、ある日突然ラジオ体操に行こうと決めた。片道歩いて15分の河川敷はラジオ体操に格好の場所だった。くしくも夫が逝った晩秋だった。身体を吹き抜ける風に身を任せる心地よさは久方ぶりに味わう感触だった。
季節が進み初冬のある朝、体操が終わって空を見上げると2羽の鳥が澄み切った寒空の中をゆっくり羽ばたいてやがて消えた。その姿を目で追い一幅の絵のような美しさを感じた。そして迎えた厳冬期。6時15分に家を出ると真向いに拡がる東の空はやがて昇る太陽のエネルギーの先端らしく漆黒に紅を流し込んだような色を底部に茜色が何層にも微妙に変化しその上には明けきらぬ暁の空が在った。この天空を背にして家々のシルエットが黒々と浮かび上がっていた。
6:30に会場に着くと空の色は一変しこの天体ショウは終わっていた。厳冬期のわずかな時間楽しめる天体ショウだ。そして待ちかねた春の足音を聞きつけて一斉に芽吹いた目にも鮮やかな新緑。私たちの正面に向かって右から枝垂桜、山桜、ソメイヨシノ、河津桜が一本ずつ植えられていて開花時期も満開時期もそれぞれ異なり私たちは結構長い事楽しめた。こんな粋な植樹をしてくれた人に感謝だ。季節が進み初夏になるとその年の一番の燕に出会う喜び。体操をする私たちの目の前を空を切るように鋭く滑空する。その鮮やかな躍動感を前に私たちの体操も元気をもらう。
第二体操が終わると私たちのグループは引き続き一分間の笑い体操に移る。腹の底から大声を出すのだ。夫亡き後独り暮らしになった私にとってこの一分間は貴重な時間だ。「ワッハッハ」川に向かって身体をそらせて笑い声を響かせる。
ある日ラジオ体操仲間からカーブスを誘われた。彼女はプラチナカードの持ち主だ。私は一回の体験を経て即入会した。とにかくコーチたちが元気がいい。「澄代さん、澄代さん」と呼びかけてくれる。程なくカーブス通いが習慣になった。鬱々と過ごした三年間の延長だったらタンパク質の重要性にも思い至らなかっただろう。感謝、感謝だ。
ひとりぼっちを癒してくれたのは同居するウサギだった。このウサギは夫が山梨県の山から下山して立ち寄った茶屋で飼われていて帰宅後二人で熟慮して「飼おう」と決断し再び茶屋に出向いてもらってきたたくさんいたウサギの中から選んだ一匹だった。
しかしこのウサギはペットと呼ぶにはほど遠かった。まず抱かれるのをいやがり全力で逃げ回った。終生自分から駆け寄ることは一度もなかった。「ほんとに愛想のない子だね」が私の口癖だった。
ある日元気がないので獣医院に行った。「男の子?女の子?」と聞かれ「わかりません」。次に「名前は?」「ありません」。獣医さんもあきれながらも「男の子ですよ」と言ってくれたのでその日から「うさきち」と呼んだ。もちろん「うさきち」と呼んで反応などあるはずもない。
でも朝一番に「うさきち」と駆け寄って私の一日が始まった。夫の死後は相変わらず愛想がなくても共に生きるかけがえのない相棒だった。そのうさきちが2021年2月に死んだ。2013年10月に我が家に来たから8年の年月を共に過ごした。あんなに抱かれるのをいやがったのに晩年はいつも私の腕の中だった。命尽きる数週間前まで必死になってケージ内のトイレに行こうとした。が、わずか30cmの高さを超えられず身体を揺らす彼の姿に私は泣いた。
うさきちの命はろうそくの火が消えていくように静かに消えていった。彼の死で夫の死、母の死の悲しみが蘇り本当にひとりぼっちになったんだと寂寥感に襲われた。でも再び暗いトンネルに入ることはなかった。習慣化していたラジオ体操とカーブスに益々熱心に通った。
深田久弥訳詩「いつかある日」の三番
♪伝えてくれ/愛しい妻に/俺が帰らなくとも/生きて行けと♪
この歌は歌詞もメロディーもいつだって私をウルウルさせる。そして今この歌詞の通りの境遇になった。「独りになっても生きていくしかないじゃない!!」たった一言の伝言を残して死んでしまった夫にうらみつらみを言いたかった。彼は終生穂高を愛した。だからと言って穂高で死んでよかったなどとは思わない。無念だっただろう。
彼は長い山行歴の集大成としてペルーのアコンカグア登山を計画しいよいよ実施の段階でそのためのトレーニング中での死だった。一瞬のミスで憧れのアコンカグアは永遠の未踏峰になってしまった。
彼が所属した山岳会が遺稿集を編んでくれた。Aさんが「竹内さん、あなたは今どのあたりにいるのだろうか、と空を見上げます。アンデスの空の風になって吹いているのでしょうか」と悼んでくれた。夫はフォルクローレを愛しケーナとサンポーニャを奏でた。アンデスの風に包まれこれらを奏でてアコンカグアの頂きに抱かれていると思いたい。
私には死ぬまで脳裏に染み付いた色と音がある。
遭遇が確実視され長野に向かう車窓からは晩秋を彩る極彩色が走っていた。屏風岩から転落し宙吊りになった夫をヘリコプターが救出中だった。重い心で眺めていると突然極彩色が灰色になった。一瞬のことだった。夫の死を確信した。
葬儀が終わって夫が居室にしていた書斎に一歩足を踏み入れた瞬間グワーンと音の波が押し寄せた。冷え切った空間の伽藍の中にいる感覚だった。呆然と立ち尽くしつい数日前まで確かにいたはずの夫がいない強烈な喪失感に襲われ遭難の一報以来初めて大声で泣いた。
2月のある日ワークアウト中、突然拍手が起った。視線を向けると一人の女性がプラチナカードを渡されていた。その祝福の拍手だった。彼女は姿勢がしゃんと伸び均整の取れた体形でいつもその体形を引き立たせる服を着ていた。そしていつも素敵な帽子を被り品の良いファッション感覚の持ち主だなあと私は彼女を眺めて嘆息していた。たとえワークアウトでも個性的なファッションを纏う人たちはファッションを楽しんでいることがわかる。
そしてそういう人たちは生き生きしている。亡き夫が「年を取ってくすんだ色の服ばかり着ていると人間もくすんで見えるぞ」と私に言った。夫が私の服に口をはさんだのは後にも先にもこのひと言だけだ。年を重ねても年相応に素敵なファッションを楽しむ彼女たちを見ると夫のひと言は私にとって耳に痛い遺言だ。しかしファッション感覚を磨くことに無縁だった私には夫の遺言をクリアできそうにない。
その日帰りがけにコーチが私の所に来て「竹内さん、ゴールドカードよ」と言ってゴールドカードをくれた。ひっそりと拍手もなかったけどうれしかった。「プラチナカードをもらうにはあと5年か。82才だ!頑張れるかな。」と一瞬弱気になったけどすぐ「頑張る。ラジオ体操とカーブスのおかけで長く暗いトンネルを抜けることができたんだから」と心新たにした。