昭和6年生まれで、9月で92才になります。
平均年令が昭和30年頃は70才でしたので、結婚して生命保険に入り夫も私も満期になり、頂きました。祝杯をあげた2年後に夫は他界しました。
60才で定年退職をして、戦後の復興で働きづめだったのでご苦労様と労い再就職はことわり夫の母と三人で旅行をした事がせめてもの慰めです。夫の他界に姑も追う様に1年後逝きました。
続くショックで、入会して居たクラブを退会しました。皆に会うのがつらくて家で花を育てながら、子供や孫達の訪問に慰められていましたが高血圧で軽い脳梗塞で入院しました時、幸い後遺症がなく退院出来ましたが高台にある住宅は180段の階段を登らなくてはならないので始めて筋力が落ちている事に気付きました。
遠回りして坂道を歩いていましたが、退会した運動クラブの人に会う勇気もなく横浜のウオーキングの会に入ったのは70代でした。横浜の歴史を知ろうと云う軽い気持でした。「優待バス」を市から頂き決心しました。
始めは先頭で出発しても昼食の頃は若い人はお弁当を開いていました。それでも横浜の歴史の跡の説明を聞いたり「港の見える丘」で開かれて行く景色を見るのは楽しくて参加していましたし元気をもらいました。
78才の時横浜地下鉄の新羽駅でバスを待って居る時カーブスの広告を見ました。78才で入る運動クラブは無いと思っていましたが体験だけでもと、見学のつもりで行きました。
コーチに「大丈夫ですよ。上手に動かしていますね。」と励まされ、5回程体験して、運動好きな私は人と比べるのではなく、自分の力で動かす事が楽しくなり入会しました。知った人はいませんでした。私より若い人でしたが挨拶する事で和気あいあいとした雰囲気でした。道で会って挨拶する若い人やコーチと親しくなり週3回は続けました。
3年目にセンター南にカーブスの教室が出来た事を知り見学に行きました。バス停から180段の階段を登ったり下ったりする事は社宅からこの高台に自宅を建てた時は健康のバロメーターだと思って近道の階段を利用しましたが家にこもり、入院生活をする度に筋力が落ちて行き急いで階段を下りる時踏み外す事もありました。
車の運転も80代に入り、返す時が来たと感じた時、子供達が便利な駅前のマンションから離れる事は無い事を聞き、私もカーブスがない子供の所に同居する気になれず独りでまだ生活が出来ると思って居た時でした。
これから週3回を続けて通うには教室の近くに住みたいと思って居ましたのでふと見た広告に近いマンションがのって居ましたので決心しました。が夫や姑の遺品の整理から子供の物を整理するのは大変でした。
センター南のカーブスに移る為の決心でした。マンション買う前に家を処分しなければならないが不動産の売買は初めてでしたが子供が居たので助かったのですが1軒屋から独り暮しのマンションに入居するには片付けて捨てる物が多くて大変でした。
しかしセンター南の教室に近いマンションに入居して良かったと、思っています。日暮の早い夕方でも、教室から帰る時も新羽だったら夜道は怖かったと思い出していました。
センター南は若い人の多い街で新羽とは違っていきいきとした感じでした。年配者は少ない感じでしたが挨拶を交わす事はほんとうに良い事だと思いました。
週3回は近いだけに、実行できました。汗が出ても着替えなくて、すぐ自宅のお風呂に入れて良かったと思っています。コロナで休会した時は教室の前迄行って何時始まるのかしら?と行ける距離のマンションに入ったのにと恨めしく思いました。
2022年2月に孫娘から4月に椿山荘で挙式して披露宴をすると云う案内を頂いた。コロナの為入籍をした時に御祝儀を送っていたがやはり式を挙げたかったのでしょう。二人で計画して、友達と親族のなごやかな会でした。久しぶりに晴れ晴れとした気分でした。
その時娘がカーブスに10年近く続けて良かったね。と効果を喜んだ言葉でした。90才で池袋から椿山荘での1日を無事に終え帰宅した事は孫娘の幸な姿を見て私も幸な嬉しい1日でした。長生きして良かったと思いました。
頂いたマガジンでめざそう90代の素敵なカーブスメンバーさんの記事を見て、とても嬉しく励まされました。コロナ禍で休会になり、再会した時老人らしき人の姿がなく、淋しく思っていた時でした。
「継続は力なり」をモットーに今迄入会したら色々な事はあっても10年は続けました。カーブスは10年過ぎましたが、顔見知りのメンバーさんの笑顔の挨拶や会話はコロナで控えても楽しい空気があり、90才過ぎてもマシンを動かす事が出来る限りは、お世話になるつもりです。週3回を実行し、風邪もひかずコロナとも戦って来たこの元気で身辺整理をして、エンディングノートを書いて終りたい。
カーブスが人生最期の「とりで」です。何年続くでしょうか?コーチとメンバーの皆様よろしくお願いします。