「あ~ぁ、ヨシいくぞ。」と自分に喝を入れて、「行って来るネ。」と息子に一言。返事がないと、「行って来るヨぉ!」と声を張り上げる。「ハ~イ、山でも川でも行ってらっしゃい。」と返される。
もうカーブスで5年が過ぎゴールドカードも頂いたのに、加速する加齢に身体が追いつかない。「どうしよう、頑張らないと。」と自分に言って聞かせる。
カーブスのドアが開くと、「みちこさ~ん、こんにちは。」爽やかな声に促され、帰りには「みちこさん、お疲れさま!」と声が飛び交う。あ~やっぱり来てよかった、嬉しい。この年齢で誰がファーストネームで呼んでくれるでしょうか。夫はもとより美知子と呼ばれた記憶がない。心地よい風が流れて、体を軽くして帰路に着く。ただ残念ながら日々自分との闘いの中で、体はボロボロ、心臓に毛が生えているほど強いと思っていたけど、体調を崩すと一気に脆くなる。あと10年、いや1年でも1日でも長く息子と共に頑張らないといけない。
23年前の雪の少ない年でした。
当時私は48歳で、いつものようにフルタイムで仕事をしていた昼休み、息子の保育園時代のお母さんが、尋常でない慌てぶりで飛び込んできました。
「あなた大変よ、へいちゃんが怪我したって。」彼女の言われるままに指定された番号に電話をしました。(まだ携帯電話も普及していない時代。)
「あっ、お母さんですか?息子さんが怪我をされて重傷です。すぐこちらに来られますか?」警察官の言葉に重症ということは重体ではないから、スキーでまぁ骨折でもしたのかしらと考えながら、上野駅で夫と合流し新幹線で新潟の六日町病院へ着いた頃にはあたりは薄暗くなっていました。
担当医は「これから腰の一部の骨を取って折れた首を支える手術をしますが、寝たきりか良くて車椅子生活になるでしょう。」と冷めた言葉に愕然として、体が震え頭も真っ白になり何も考えられない。大学を卒業して就職をした1年目が終わろうとしている、2月24日の出来事でした。
私は仕事場から駆け付けたまま、約2か月近く帰れなくなり、発熱と体の置き所がなく苦しむ息子に必死で寄り添いました。絶望の中で何度となく4階の個室から窓の下を見て、息子の首を絞めてここから飛び降りようと悪魔の囁きと戦っていました。しかし、当の本人は宣告を受けてから約1週間、白い天井を瞬きもせずにじっと見詰め、泣きわめくでもなく愚痴るでもなく静かに、「お母ちゃん、苦労かけて悪いね。」と一筋の涙と共に一言があり、あの時自分の気持ちにけりをつけて前を向いたのでしょう。
「お母さんもまだ若いから一緒にやっていこうネ。」というのが精一杯で、そっと息子の頭を撫でました。人間ってわからないものです。我が子があんなに力強いものを持っていたなんて。
約2か月後、担当医の勧めで厚木市にある神奈川リハビリステーション病院へ、家族全員でありとあらゆる手を使い難航の末に、転院することができました。そこから一年間息子の厳しい訓練がスタートしました。
首の第6頸椎骨折の為、失ったものは両手両足、指、腹筋背筋、体温調整(熱い・暑い・寒い・冷たい・痛い・痒いの麻痺)つまり真夏の33度以上の炎天下に30分以上さらされると、体温が40度以上になり命の危険が迫ります。
また、排便排尿が自力ではできず、排便は摘便といって肛門の中を促す介助をして、排尿はカテーテルという道具を使います。頸髄の損傷は脊椎損傷より場所によって重度になります。要するに首から下の全マヒです。
私たちは奈落の底に突き落とされました。残った機能をいかして生きていく生活が始まったのです。
雪が解けてむき出しになった防災ネットも張っていないリフトの鉄柱に突っ込み、首で止まった瞬間息子の機能は失われました。無論裁判でスキー場と3年戦いましたが、当時はまだ前例がないという理由で厳しいものでした。
そんな中でも息子はしっかりと前を向き、次の挑戦を私に内緒で行動していました。
年間5人しか採用しない、東京コロニーという障害者の自立支援をする学校に書類を病院から出して、神奈リハ退院日の午後が筆記試験日で、「お母ちゃん西早稲田までいくヨ。」何が何だか分からないまま試験会場の息子の隣で代筆していました。諦めかけていた頃、第3次の面接が届き、3月に合格を頂き、明るい希望の光が我が家に差し込みました。
泣いている暇などない日々の連続です。西早稲田から毎回先生が我が家まで2年間通って下さり、パソコンの習得と資格の取得の為ご教示戴きまして、卒業と同時にN社の正社員として今日まで20年間在宅で午後6時まで、両手に装具をつけて仕事をしています。
寝たきりか良くて車椅子生活と宣告された息子が今日あるのは、多くの方々の支援と、何といっても本人の強靭な精神力と自負しています。そんな息子に親として出来ることは、泣き言を言ってこの子の足を引っ張らない事と、息子に病気を作らないように体調管理、つまり食事や衛生面を維持する事。そして私自身が筋力を付けて元気でいる事です。
健常者で23年、障害者で23年をこの2月に迎え、息子は病気一つしない奇跡が続いています。
反面、残念ながら私の体は老齢と共に1日1日厳しくなっています。
排便介助や入浴介助でしょっちゅう腰を痛め、腕と肩は元に戻らない不甲斐なさは、これすべてが私の生活の一部になっています。我が家に来る保健師さんに勧められてカーブスに来ました。正しくマシンを使い日々トレーニングを積み重ねれば、心も体も癒せて、カーブスとは準医療に匹敵する力がそこにはあります。
この機会を頂いたことは、多くの皆様に障害とは何かを頭の隅に置いて頂きながら、街で見かけたハンデを持った人々に、理解を深めて戴きたいと願っています。
皆さまカーブスで共に頑張りましょう。
入賞
「息子と共に」
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