佳作
「妻の病気とカーブスとの出会い」
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」............失語症の妻に代わり男の私がカーブスとの出会いを綴ってみたいと思います。
不思議そうに私の顔を見て、「此処は何処?私はだれ?きれいなお花畑があってそこで私は遊んでいたの、でもその先に行ってはいけないと言われたの。」一ヶ月間の長い眠りから目を覚まして発した第一声でした。三ヶ月間の闘病生活を終え自宅に帰ってきてからの出来事ですが、庭に出て小石を10個ほど集めて輪を作り、「これは蟻さんのお墓なの、踏まないで頂戴」と言われた時、又退院後暫くして(半年位)200mほど離れたところで(日常的に歩いていた場所)奥さん迷子になっていますよと連絡を受けた時、私は妻の世話を一生かけて、妻よりも一日でも長く生きて世話していこうと決心しました。
いつもと変わらぬ日でした、その当時クモ膜下出血が恐ろしい病だなんて私も妻も知りませんでした。頭痛を訴えてから手術が始まるまで6時間くらい経過してしまいました。事前に医師から告げられた説明は手術をしなければ助かりません、手術をしても生存率は二割位です、成功しても後遺症が残ることは覚悟してくださいと。苦渋の選択を迫られましたが、すべてを医師の腕に託して同意をしました。午後4時ころ手術室に入ってから夜中の2時頃に医師から手術は無事に終わりましたが、当分の間予断を許さない状態が続きますので常に連絡が取れる生活をして下さいと言われた時は半ば放心状態でした。医師の言葉どおり時間に関係なく幾度となく病院から連絡が入り、電話のベルが鳴ると生きた心地がしませんでした。いわく肺炎を発症しました、水頭症の手術が必要です、衰弱が激しいので喉を切開して栄養補給と痰の吸入が必要ですと。
私62歳、妻は57歳、この年は波乱万丈の幕開けでした。長年働いた会社を整理して第二の人生のスタートを切ったのが3月、一人暮らしの気丈な義母(妻の母)が弱音を吐くようになり3姉妹で話し合った結果、我が家に呼び寄せることになり準備に入ったのが5月、この年は猛暑でしたが、妻は連日実家に通って荷物の整理(トラック3台分)私は庭の一角を整理して6畳間の増築スペースを確保し、工務店と増築契約をしたのが8月、そして9月13日には娘の住んでいるニューヨークを起点にして妻の通訳でアムトラック(米大陸横断鉄道)に乗って東海岸から"風と共に去りぬ"のジョージア州アトランタまで列車の旅を計画し(予約済み)、準備万端整いあとは11日のマンハッタンの同時多発テロの一周年記念番組を録画したらお仕舞といったところで悪夢が襲ったのです。出発まであと3日でした。
退院後暫く座れない、歩けない、食べられない生活が続きましたが必死になって病院のリハビリに通いました。半年位して外出を始めたらすれ違う自転車、クラクションを鳴らす自動車に体が硬直してしまい散歩もままならぬ状態でした。妻の回復のためには都会での生活を諦めのんびり暮らせる場所をと、終の棲家として選択したのが鹿嶋です(旧大野村、超田舎)。移住後まもなくして市内の病院の検査で腎臓癌が判明、万全を期すため千葉の大学病院で手術をすることになりました。季節は年末間近、イルミネーションで飾られ、クリスマスソングで賑やかな街を後にして漆黒の闇、満天の星が輝く空を見上げながら妻の無事を祈りつつ我が家に帰る面会の日々が続きましたが、片方の腎臓を全摘して、手術は無事成功しました。
か細い妻の生命力を維持するために、生活全般に渡って二人三脚であらゆる事に努力してきました。その一つがスポーツジム通いです。埼玉に住んでいた時はコナミスポーツクラブでマシーン&マッサージを鹿島ではサッカースタジアムのスポーツジムに通いましたが体力のない妻には錘で調節するマシーンでは負荷の掛け方が難しいようで次第に足が遠のき断念しました。そんな時に記憶は確かではありませんが、体の弱い奥さんのために外国の医師が開発したトレーニングジムが日本でも評判になっているという記事を目にし、通院している脳外の医師に相談したところ理にかなった運動なのでやってみなさいと薦められところに、カーブス鹿嶋の案内チラシが入ってきたので早速電話連絡を入れてから、土曜日の営業時間終了後、妻と一緒に説明を聞きました。平成25年9月、これが私達とカーブスの出会いの発端です。H店長からカーブスのシステムについて一通り説明を聞いた後、トレーニングの実際を見学して思ったことは、油圧式のマシーンは筋力のない妻にはぴったりだけどサーキットトレーニングにはついていけるのか一抹の不安を感じましたが、慣れるまでは店長をはじめスタッフが"注意深く見守りますよ"と言われたので此処は信頼して妻の身を任せてみようと入会することを決心しました。自分の目で中の様子を窺うことが出来ないので心配でしたが、知り合いのボランティア仲間の人が奥さん努力しているよと報告してくれたり、たまにスタッフの人が出てきて状況を知らせてくれるので徐々に心配も解消しました。最初の内はなんとなく出かけるのに足が重かったけれど2~3カ月たち流れに乗れるようになってきたら自分から支度をして週に3回通うことが日課になるほどに積極的になりました。"認知症"、"ロコモ"、"寝たきり"、"骨粗鬆症"これら負のイメージの日常生活から身を守るためにカーブス通いが日課になり、楽しみになり、筋力も付き、体力も回復しつつあるさなか、再び試練がやってきました。
10数年にわたり経過観察を続けてきた未破裂動脈瘤が破裂する状態(5mm)迄達したので手術をするか放置するか決断を迫られました。平成27年2月に手術にふみきりましたが1週間位での退院見込みが予想以上にダメージが大きく長期の入院を余儀なくされました。術後認知機能が低化してナースコールボタンが押せないので個室での夜間の付き添いを始めましたが自分の体力の消耗もあり、たまに妻の姉に交替でつきそいをお願いしました。娘も心配してN.Yから様子を見に来ました。久しぶりに家に戻った時に心配してくれていたH店長に愚痴とも現況報告ともつかない連絡をしたら、"菊池さん早く回復してカーブスに戻ってくるのを心待ちにしていますよ"と言われ、後日スタッフ一同から病院に送られてきた寄せ書きを読んで、妻と共に早く回復してご好意に報いようと誓いました。1ヶ月半の入院生活から無事帰宅して10日程でカーブス通いを始めましたが、足下がおぼつかないのと握力が無いのが原因でジム内で倒れこむこともあったようですが、妻は"皆様の励ましに応えるために私は頑張るのだ"と言って黙々とトレーニングに励み、徐々に元の体力を回復するとともに明るさも戻り、雨が降ろうが、槍が降ろうとも若くてべっぴんさんのスタッフが待っている、妻の体を心配して励ましてくれる会員の皆様が待っているカーブスに通うのが生きがいになっています。会員の中でも妻はある意味で注目を集める人(体の弱さで)だったので、会う人ごとに奥さん本当に元気になったね、姿勢が良くなったね、背筋が伸びたねと褒められます。
最後にどうか体の弱い全国の会員の皆様、決して諦めずに日々トレーニングに励んで下さい。継続は力なりを実践している一会員がいることを胸に抱いて。
カーブスって
どんな運動?