私は今、カーブス野田玉川に通っている。ここは二〇一六年一二月にできたばかりで、新しくてきれい。コーチたちは威勢良く顔晴(ガンバ)っている。先日も家の近くのスーパーに出掛けた時に、コーチがスーパーに来る人たちに向かって「筋肉が重要ですよぉ~~」といいながら、メンバーを増やす為に声を掛けていた。私は「こんにちわぁ~~」と挨拶をした。
カーブス野田玉川ができるまで、私はカーブス野田阪神で、店長やたくさんのコーチに「筋肉が大切」と教えてもらったり、マシンの使い方を指導してもらいました。友達にも薦めると私以上に喜んで毎日の様に通っている人もいます。そのほかにも顔見知りもいて、丸四年通っていました。
ずっと前に、野田阪神にカーブスができたというチラシを、新聞の折り込みで見た時、年齢を重ねて少しづつ体重増加が気になっていた時期だった。スポーツを全然しないタイプだから、「こんなカタチの教室に通うのも有りだな~」と思っていたが、そのままになっていました。
二〇一二年の八月末、旅行先で、足をくじいて左の足首の骨が折れてしまった。家族のみんなに「体重を支える足が赤信号を発したんや~」といわれた。一ヶ月間ギプスで固定されて、家の中で悶々としていた時に友人が見舞いに来てくれて、「今カーブスの帰りなんだけれど、これでも読む?」って、軽い調子で【curves magazine】を置いていってくれました。パラパラとページをめくると、私がいつかチラシをみて関心を寄せていたカーブス野田阪神だと解った。友人はそこに行っているらしい。
ギプスを外しながら医師が「あなたの骨は他に何の問題もなく、ここが繋がったので、今までどうり何でも普通にできますよ」といって下さった。(そうだったんだ、だからギプス以外何の薬も出ず、治療もなかったんだ)と、気がついた。にも関わらず私は正座するのが怖かった。
一二月一日~一三日まで、私の実話の「女子高生チヨ」というタイトルのコミックが、ミュージカルになって東京や大阪の劇場で木の実ナナさんが演じてくれるという予定があった。それまでは新聞の取材を受けたり、朗読CDを作ったりと忙しくて、足の事が気になりつつ、そのミュージカルが終了するまで、新しい事を始めることができなかった。そしてミュージカルが終わった翌日、一二月一三日やっとカーブス野田阪神に始めて行った。
第一印象は女性特有の「やかましいこと!。」コーチはみんな元気な声で対応しているし、壁という壁にところ狭しと貼ってある文字!もじ!モジ!み~んな手書き!!圧迫感が半端じゃない!
そこで「紹介者は?」と聞かれた。紹介がないと駄目なのかと思った。とっさに冊子をくれた友人の苗字を言ったら、「ああ、Mさんですね」という。苗字じゃなくて名前?これは新鮮だった!。紹介者を聞いたのは入会者と紹介者にカーブス特製Tシャツをくれるというシステムだと、あとで解った。
その日からすぐ、カーブス野田阪神の靴を借りて体験させてくれた。それから一二月中、数回体験して二〇一三年一月から正式にメンバーとして入会した。
お正月。子どもや孫に囲まれて正座していた私をみて家族を驚いていた。本人の私もいつの間に正座ができたのか不思議で、笑ってしまった。
それから一ヶ月した二〇一三年二月、カーブス野田阪神は場所が変わった。家より少し遠くなった。けれど、もうあの「やかましさと圧迫感」には慣れてきていたので、続けて通っていた。
その後七月に、今度は私の方が、老夫婦二人のこれからの生活を考え、普通の家からマンションに変わった。もっとカーブスが遠くなった。
そのマンション住人でカーブス野田阪神に通っている顔見知りの方もいたので、「私も行ける!」と思って続けた。私は徒歩では時間がかかりすぎるので、バスや自転車も使って通った。
それぞれのマシンを使っている時に、どの筋肉が使われているかと思いながら正確に使いなさい。というコーチの言葉をしっかり守って、一年二年と進むうちに、私の、まえからの問題だった膀胱の臓器脱の事もコーチに相談出来た。それはカーブスマガジンなどにも載っていて骨盤辺りの筋肉がつくと良くなる事も解った。月ごとの測定結果が面白くてヤルキを引き出してくれる。という事も解った。スポーツをして【誰かと戦う】のが余り好きでない私は、月に一〇回くらい行って【自分の老いと戦う】事が面白くなってきた。
ところが、二〇一五年夫が大きな手術で、三ヶ月近く入院生活をした。その後も定期受診とか、家にいても夫の事が中心になって、思う様に自分の時間が取れなくなった。随分日数がかかったが、やっと三〇〇回のTシャツを貰えた。それからも、できるだけ通っていたが、気持ちも体力も付いて行けず、月に二回か三回になり、もう辞めようかと思っていた。が、とりあえず測定日には行く様にして、腹筋測定の時はちょっと苦労しつつも、書かれた数字に自分でヤルキを起こすようにした。けれどそれがストレスになったのか、中々体重が定まらず体重が増えていく傾向になった。だからマイペースに戻して、いつかは五〇〇回になるだろう~。くらいの考え方をしながら、ボチボチと続けていた。
そんな、二〇一六年秋ごろに≪カーブス野田玉川開設≫という貼り紙の地図を見て、【ここなら家から五分くらい、信号も一カ所、行き易い!!】と、私は即座に移動を決めた。
二〇一六年一二月七日カーブス野田玉川初日。
その日には行けなかったけれど、八日に行った。マシンが七、八台しかなく二周半する様にという事だったし、メンバーの人数も少なかった。ところが、コーチの方々の努力やカーブスの良さを知っているメンバーの方達のクチコミなどもあるからか、いまでは真新しいマシンも一二台全部揃って、段々メンバーも増えてきている。
新しいマシンは、新しいからきれいで固い!。その固さが筋肉つくりに良いという事も解ってきたし、コーチ陣も優しくしてくれる。時々は懐かしいカーブス野田阪神のマネージャーやコーチも顔を見せてくれるし、そこに通っている同じマンションの人とも交流があるのでいろいろなニュースも入ってくる。
カーブスが近くなった事で私はこの頃、月に六回程度行けるようになり、体重も徐々に減りつつある。そればかりか筋肉も付いて来て、臓器脱もそれ以上に進まなくなった。ストレスもたまらず、病気と闘っている夫にも優しく出来る様になって来て、続けていく事が重要と思える毎日である。
これからもゆっくりマイペースで、現状維持を目標に続けていきます。