母は認知症がすすんで、「何も食べていない。」をくり返し言うようになり、平成二十年の一月に寝込んでしまった。若い時は、看護婦で結婚後は病人のお世話をしたり、アドバイスをしてくれました。「若き日は白衣の天使わが母はとろりとおいしいおかゆを炊きぬ。」・・・
平成二十年八月一日、脱水症と感染症にかかり入院、命拾い。八月三日の身体測定では、体重二十七キロ、身長一メートル四十センチでした。やせて小さくなってしまった母のもとに、毎日通いました。点滴をはずして液を飲んでいることもありました。だんだんに、自分でスプーンを使って食べることもできなくなっていきました。「今日は、まだこないね。」と言って私の行くのを待っている母!
近所の人にも、「よく病院へ行ってやるね。」と言われ、ソーシャルワーカーに、「あなたと話をしているお母さん、いい表情しているね。」と、言われ、嬉しくなりました。まだ母(九十二才)が生きていてくれると、どれだけ力強く思ったことでしょうか。看護婦さんが、私を指さして「この人は誰ですか」と、聞くと娘の榮子ですと答えていた母! 私が四十七歳の時夫が病死、二人の子供も小四、小二だったので、母には苦労をかけましたので、できるだけのことはしてやりたいとの思いからでした。
私は六十才をすぎてから、ぼつぼつ体調が崩れ始め、整形外科に通うようになりました。姿勢が悪い事と首の変形により、手のしびれや、腰痛が、起きたり、ころんでしまったり、するようになったためです。筋力の衰えを、実感しました。七十才をすぎたら、貧血と、言われるようになりました。昨年の、まさかの「ガン告知」には、動揺しました。幸にしてガンでは、ありませんでしたが、逆流性胃腸炎があるため、ガンにならないように、半年ごとに胃カメラをのんでいます。食生活には、とくに注意するようになりました。
タンパク質不足が、病気やけがを招く(カーブス掲示・朝日新聞)繰り返し読んでいます。おかげさまで、四十キロをわってしまっていた体重も、もとにもどってきました。体力をおとさないように、これからも、頑張りますので、よろしくお願いします。
母は、リハビリを断ったため、左足が麻痺・体力がおち、皮膚や皮膚の下に細菌(カビがでて、体をかゆがりました。入院も、三年目に入った頃から、昼食後に食堂に母だけが残されているようになりました。食べた物をあげてしまうので、のどにつまらないように起こしてあるとのことでした。(私も注意!)その年誕生日には、熱をだし誕生会にもでられずベッドにいました。四年目の夏は、越せないだろうと思っていたら、看護婦さんに、「すっかり元気をなくしてしまったから、できるだけ来てやってね。」と言われました。 
八月十日になくなりました。私がカーブスに入会し、三ヵ月目でしたので、葬式の時には腰痛、ひざ痛ですわれませんでした。(私より9才と10才若い)弟夫婦も腰痛で、悩んでいました。カーブスの話がでましたので、入会をすすめました。私は、カーブスの効果がすぐでて、姿勢がよくなり歩くのも楽になっていたのです。その後、正座もできるようになりました。台湾とモンゴルへ旅行し、楽しい想い出づくりができました。
近所の八十六才の人にカーブスを紹介していっしょの時間を、過ごせるようになり、親友となりました。私、彼女を母親のように思っていましたのに、二年後に亡くなりました。お肉が、嫌いな人でした・・・・。カーブスに通っていた時も、家の中でころび手首を骨折、買物中に倒れ、脳神経外科に入院後のことでした。でも八十すぎまでバトミントンをやっていて、若い人には負けなかったというバイタリティには、感心でした。
私がカーブスを続ける理由は、友達ができ毎日の生活に張りもでて、体力がつくからです。今年の六月には六年目に入ります。カーブスに通っていた五年間に、長男がインフルエンザに二回と、ノロウィルスに一回かかりましたが、私と娘は、感染しませんでした。
日頃の運動と筋トレの成果だと思います。
息子もスポーツやっていなかったわけでは、ありませんでしたが・・・・。ジムにも、行く時間がなくなって、久しぶりに行き、張りきりすぎて、体を痛めてしまったようでした。今は、「歩かなくてはだめだ」と、言って、買ったばかりの写真機を持って、でかけています。仕事で毎日、重い物を持つので、背骨がまがってきたようです。時々、マッサージに通っています。私は、ひどい測湾症です。私のようにならないように、注意しています。
最近、筋力がついたことを実感でき、コーチに機械を使うのが上手になったと、ほめられました。これからは、私に欠けている、柔軟性をつけていくように、心掛けます。ありがとう、カーブス!