いつもと変りない朝、いつもの様にカーブスへ行き汗を流していました。
その時、コーチから「ひまわりさん、カーブスエッセイを書いてみませんか?」と、声をかけられました。その時は、私なんて人に伝える事など何にもないのに・・・冗談でしょうと思いました。でも、カーブスに出逢った感謝の気持、コーチの方々への感謝の気持なら伝えられるかも知れないと思いペンを取る事にしました。
私は現在61歳です。振り返ってみれば、波乱万丈の人生だった様に思います。
若き19歳で自分の意志は全くないままに周囲のお膳立てに乗せられ流されるまま結婚をしました。嫁いだ先は、町から遠く離れた山の中の一軒家でした。一番近い近所と言えば、車を走らせないと行けないほど離れているのです。夜になると、キツネやらタヌキが出る山の中の一軒家でした。そこには水道も無く生活水は山から流れる湧き水を溜めポンプで引き上げ、それが生活水になるのです。少々、濁り水ですが、不平不満を言える環境ではありませんでした。何にも不自由なく育った私には全てが別世界へタイムスリップをした感覚でした。勿論、雨になると何日も水が使えなくて離れた民家に貰い水に行くのです。毎日、川で洗濯をする時は、まさに「昭和のおしん」だと思ったものです。そんな生活の中で、主人は重度の「うつ病」になったのです。何年も精神病院に入退院を繰り返し凶暴化をして行くのです。そのたびに警察の方にお世話になり助けて頂きました。
毎日がテレビドラマの様な日々が続きました。私は命の危険を感じ、そんな夫から二人の子供を連れて逃げる様に家を出たのです。そして、その後に離婚。二人の子供を育てる為に働き続け数年がたちました。そして、56歳の時、今現在の夫から猛アピールを受け再婚をしたのです。
忘れもしない、3・11東日本大震災の一週間前の事です。引っ越し荷物が、やっと片づいたと思った直後に恐怖の大きな揺れ、何が起きたのか信じられない光景が目の前に起きたのです。気持の整理がつかないまま。その翌日に、夫が癌の告知を受けたのです。
そして、速日、手術です。
それからは、長い抗ガン剤治療が始まったのです。その頃の私は、田舎から何もわからない所へ来たホームシックと、大震災の後遺症、夫の癌、抗ガン剤治療のサポートと、もう心が折れそうでした。そんな私を見ていた夫が、「カーブスに行ってみれば」と言ったのです。
「カーブス」って何?と思いました。
好奇心大勢な私が興味を持ったのがカーブスとの始まりです。軽い気持で覗いて見ると、女性ばかりが楽しく生きいきと、マシンを使っていたのです。私は、そんな雰囲気に引かれて直ぐ入会をしました。
身体を動かし、モチベーションも上り、元気になり、友達も出来、こんないい場所があった事に感激をしました。カーブスを教えてくれた夫にも感謝で一杯でした。
そんな矢先に、田舎の義母が認知症を発症したのです。
私は抗ガン剤と戦っている夫を一人残して、義母の介護をする為に、また田舎に戻る事になったのです。義母は、とても進行が早く、どんどんと認知症が進むのです。家の中は、至る所が便だらけ、食事は全部手づかみ、大声で叫び暴言を吐き、暴れる毎日です。夜は眠らず目を離すと家出。毎日が介護との戦いだったのです。
そんな生活の中でも、ラッキーな事に近場にカーブスがあったのです。
私は、どんなに大変でも一日30分の時間を必ず作りカーブスを続けたのです。カーブスは私にとって息抜きの場所であり、どんなに嫌な事、辛い事でも前向きにプラス思考に笑顔にさせてくれる場所でした。体重の重い義母を支える筋肉をカーブスから頂きました。続ける事で少しずつ自分の身体に変化が現れて来るのです。カーブスは筋肉の大切さを教えてくれました。
「身体が変われば心が変わる」
「心が変われば毎日が変わる」
「毎日が変われば人生が変わる」
まさに、その通りです。どんなに義母が暴れても、不始末を起こしても笑顔で接している自分が居ました。
カーブスに行くと、優しく励ましてくれるコーチ達、一緒に涙を流してくれるコーチ。
一緒に喜んでくれるコーチ。声を掛け合うメンバーさん達。それが、「カーブス」なのです。いい事が沢山と発見できるカーブスは、すばらしい女性だけの場所です。そんなカーブスに私は心から、
「カーブスありがとう」
「コーチの方々、ありがとう」
「筋トレ、ありがとう」心から感謝の思いです。カーブスで筋トレを続ける限り、私に次の試練が起きても、きっと負けずに乗り越えて行けます。
そんな義母も昨年末に施設へ入所ができ、今は全てを忘れて穏やかに過ごしております
私の人生の中で、カーブスに出逢えた事、筋トレの大切さを教えてくれたカーブス。心から感謝の思いです。
「ありがとう」カーブス。
佳作
「カーブスに感謝」
カーブスって
どんな運動?