はじめまして。アルプラザ栗東カーブスに通って2年になります。柴田小百合と申します。恐縮ですが、私の今までの人生話や私の将来の夢について語らせて頂きます。
実は、私4歳8ケ月時に心臓の手術を受け、それ以来小学校卒業するまで、スポーツというスポーツは、出来ませんでした。それに病弱で欠席したり、早退したり、遅刻したり数えきれない程病院通いの生活でした。
そんな私が、中学生になるとスポーツをしても良いと言われましたが、何がしたいのか何をして良いのかわからず、友達にさそわれるままにバレーボール部に入部しました。記憶に残っているのは、練習が嫌いと言うか、辛くしんどくて、また先輩、後輩の関係も厳しく嫌で、何とか理由つけて休む事も時々ありました。
高校生になると、少しバレーボールが楽しく好きになってきて先輩、後輩の関係もよく、充実した高校生活でした。
そんな私が、社会人となり就職先の先輩が「一緒に走らへんか?大会に出場しないか?」と男性の方が、声をかけて下さいました。確か24歳だったと思いますが、ぽっちゃりと太っていて、ましてマラソン大会に出場しょうと思った事はありませんでした。ありがたい事に同僚の女性も「私も走る」と言って下さり、朝、晩とりあえず5km走れるように、練習しました。毎日練習してるうちに、楽しくなり、体重も減り嬉しくなって、調子にのって10月に福井県敦賀市の大会に出場しました。それが、きっかけとなりマラソンから、トライアスロンまで夢を追う事となります。
'91年12月に、ホノルルマラソン大会に出たいと思う様になり、後2ケ月しかありませんが、同僚と共にトレーニングにはげみます。
'91年12月15日ホノルルマラソン大会に出場し、何と人生始めての記録5時間7分18秒で、フルマラソンを完走する事が出来ました。
その後も、盲人の伴走をさせて頂いたり、たくさんの方々と出逢いもあり、趣味と言うか生活の中に走れる喜びを感じながら、走り続けます。
私が、30歳の時に両親2人共同時期に倒れ寝たきりとなります。そんな中私は夢をふくらませ、泳げないのにトライアスロンに出場したいと思いはじめます。私は、ありがたい事に看護師という免許取得が出来、重度の障害がある入所施設で三交替してたので、給料もそこそこありました。
両親2人の面倒見ながら、スイミング、バイク、ランニング3種目のトレーニングにはげみ、ついに天草トライアスロン大会に出場します。(スイム1.5km、バイク40km、ラン10km)タイムは、忘れましたが完走出来ました。その後も35歳までトライアスロンは続けます。その35歳の時に出場したアメリカの田舎の大会が、最後となりました。
自分の好きな仕事につけ、趣味をみつけられ目標に向って夢を追い続け、実現出来た事に感謝です。
38歳の時に、人生の伴侶となる人と出逢い結婚し、41歳で運よく出産する事が出来ました。その子が、今7歳で走る事が、大好きでこの前学校のマラソン大会1km7分で完走する事が出来ました。
私の将来の夢は、子供と一緒に短い距離で良いので、ファミリーの部3kmに出場するのが夢です。
カーブスに出逢い、スタッフ方々に出逢い筋トレの必要性を知り、又大切さを感じプロティンも飲む様になり体脂肪も減り、膝の痛みもなく毎日、カーブスに通うのが日課になっています。まだ、子供が7歳なのでなかなか毎日行けず、又行ったとしても2周まわれず、1周の時もちょこちょこあります。店が閉まる10分前でも、たとえ5台でもマシンをしてストレッチして帰る事も度々あります。
その5台でも、カーブスに通えマシンが出来た事に感謝。スタッフ方々が心良く迎えて下さる事に感謝。子供が「お母さんカーブスに行ってきていいよ。私、夕飯食べてるから行ってきい。」と心よく言ってくれる子供に感謝です。
私一人でカーブスに行ってるんじゃないと思う今日この頃です。
父が亡くなって6年が過ぎ、去年10月に七回忌を終える事が出来ました。父は、脳梗塞で倒れ、そのまま寝たきりとなって入院生活9年という長い年月苦しみました。母は、骨粗症にて肋骨が折れ肺炎となり、寝たきりとなり、入院生活6年苦しみました。特に母に筋トレの大切さ、必要性を伝え、教えていれば、寝たきりにはならなかったのではと後悔しています。
カーブスに通っておられる会員の皆様、是非家族の方に、近所の方に、同僚に筋肉の大切さ必要性を伝えていって頂きたいと願っております。
私も5年後、10年後必ず年齢は老いています。でも、筋トレを細く長く続け、どこの痛みもなく、元気に明るく毎日過ごせている事を願って筆を置きます。
長々とまとまりのない文章で失礼しました。お許し下さい。
読んで頂きありがとうございます。