今年、私はとうとう59歳になった。あのとき、私は32歳。
59歳という年齢は、とてつもなく先のことに思えた。人生で一番泣いた日・・・
あの日、母は59歳で逝ってしまった。
私の中で59歳はとてつもなく特別な年で、感慨深い。複雑な心境でこの年を迎えた。
働くことと家族への奉仕で一生を終えた母は、今の私を見て何んと言うだろう。
孫と遊び、カーブスや講座に通う気ままな暮らしができる私は幸せだ。
あの頃は想像すらできなかった59歳という年齢は、なってしまえば「まだまだ若いじゃん!」と正直思っている。
だからこそ、悲しみは深い。
母を亡くした当時より、母の若さがわかるだけに何倍も何十倍もつらさがつのってくる。
娘が3人もいながら、母の変調に気がついてやれなかった。
自分の身体を思いやるゆとりさえなかったであろう母の日常を思うと、27年経った今でもやりきれなくなる。
思い出や感傷は、折にふれ、懐かしさや喪失感と共にやってくる。
人の死は、家族の心にトゲのようにささり、澱のように深く暗く心に沈むことを、身を持って経験した。
59歳を迎えたからこそわかる、健康のありがたさ〔普通の日常〕のありがたさに、日々感謝している。
母にもこんなゆとりの時間があったら・・・。
父との2人の暮らしは平穏なものだったのだろうか・・・と、
親不幸な自分のことは棚に上げ、その頃の父に対して不信感を募らせたこともあった。
今ではその父も鬼籍に入り、天国で母と二人仲睦まじく穏やかに過ごしているだろう。
私たちを見守ってくれていることを感じる瞬間が多々ある。
この夏で私のカーブス歴は丸6年間となる。入会のきっかけは更年期うつからの脱出だったが、
1年・・・2年・・・3年・・・と通ううちにカーブスとの関わりは年を追うごとに、自然体となったような気がする。
しかしながら、体重も体脂肪や筋肉量もめざましい変化を遂げたりはしないのが現実だ。
カーブスのPRVを観ていると何kgもの体重減、サイズダウンなどの体験談が本当にうらやましくなる。
私の身体にはなかなか希望の女神はまい降りてくれないが、
スタッフと冗談を交わしながら楽しくワークアウトしている。
この時間、この空気感がとても好きだ。
心身共にいやされていることが、本当に心地良い。
思えば昨年は、この時期春の陽気を楽しむ気分ではなく[五十肩]と闘っていた。
自分で決めたこととはいえ、注射等の積極的な治療を選ばなかったため、寝ても覚めてもその痛みと不自由さに苦しんでいた。
退会を決心したものの、家族やスタッフに励まされ、痛い左腕をかばいながらなんとか通っていた。
腕を使うマシンは全てスルーし、マシンの半分しかできなかった。
それでも、仕事、家事、孫守り・・・と、最悪な時期を除いてはほぼ元のペースどおりにこなすことができたのは、
カーブスで培った体力と筋力があったればこそ!
痛みと違和感が日常化していたため、正確にはいつ完治したのか定かではない。
完全に脱出したと自覚できたのは、12月頃だっただろうか・・・
新年早々の発症だったので、実に1年近いおつき合いだったことになる。
理由(わけ)もなく幸せに思えるのは、春がきたから・・・なのだそうな・・・
この春、私は季節を楽しむことも、カーブスに通う楽しみも全て謳歌している。
全部のマシンを使えることの気持ち良さを、日々実感している。
鼻歌気分で調子に乗っていると、スタッフの厳しいチェックが入り、直してもらうこともしばしば・・・。
どうも長い年数が気のゆるみとなり、我流を生みだしているようだ。
ゴールドカードに恥ずかしくないよう、気合を入れないと・・・と決意を新たにする。
59歳の私・・・
これからの私は、老いた母を知らない私は、どんなふうに年を重ねていくのだろう。
母が恋しいとき、どうしようもないとき、母似の私は母の面差しを自分の顔に重ね、鏡を見ては想いをつのらせた。
この先、母の年を超えていくことになる。
私の知る母が遠のいたらどうしよう。
残された道はただひとつ。
老けこむことなく、体年齢、見た目年齢の59歳をなんとか死守しよう!!
そう決めたら、なんだか元気が出てきた。
カーブスの前を通ると、孫たちは必ず「ばーばのカーブス」と言っている。
[ばーば]イコール[カーブス]と連想するらしいので、こうなったらやめるわけにはいかない。
身体が動く限り、通い続けたい。
心も身体も健康に・・・
それが私の目標であり、願いである。
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