遠距離通勤を続けていた五十代半ば、町内会の知人の紹介で「ヤマト橿原一周年記念」の無料体験会に参加。「これこそ継続可能な筋トレだ。」と入会しました。「週三回ワークアウト。仕事を続ける体力を維持。その上、メリハリボディになればいうことなし。」が当時の目標でした。幸い自宅からカーブスまでは徒歩一四〇歩。週一回の水泳もあり、「私のビフォー・アフター」計画は順風満帆に進む予定でした。しかしこの数年様々な経験をして、カーブスは、この目標を超越した大切な存在になりました。

 「私の命と人生はカーブスで救われている。」と心から思っています。
 二〇〇八年秋の検診で病気が見つかり、翌年早々手術をしました。早期発見なので軽くて済むと安心していましたが、決断のいる手術になりました。午後から入院という日、午前中にワークアウトをしました。手術の結果次第ではしばらくカーブスに行けないと覚悟しました。
 幸い転移も見つからず、手術は成功。二週間後に無事退院できました。しかし、術後の痛みは続き、上半身に強い違和感があります。これからも今まで同様な生活ができるか不安でした。
 そんなとき、突然カーブス天使が囁きました。
「摘出した部位は戻らないけれど、残された大胸筋を鍛え、体全体の筋肉を維持してこれからの治療に備えましょう。」
「動かせるマシーンだけをしよう。ステップボードは足踏みだけ。途中で疲れたらすぐ帰宅すればよい。」
と言い聞かせて、退院三日後にカーブスに出かけました。しかし、私の悲観的予想は裏切られました。いつも通りワークアウト二周、ストレッチも完了。あの時の嬉しい気持ちは今でも忘れません。体の違和感を軽減したいと祈る気持ちで、抗癌治療開始までの一か月間、黙々と練習しました。
 病気の件はコーチに伝えませんでしたが、ストレッチを終えたある日、「カーブスの感想をきかせて下さい。」と尋ねてくれました。私は、堰を切ったように手術の経緯や治療の不安を話しました。これを機に心は軽くなり、自然体でカーブスに通えました。


 やがて抗癌治療が始まり脱毛開始。髪は塊となって抜け落ち、いつの間にか「一休さん」に。朝昼晩と毎日、副作用を抑える沢山の薬を飲み、白血球減少時には感染症にかかり易いので自宅で静養。
 そんな時、またも天使が語りかけます。
 「素敵な帽子、ウイッグ、補正下着もたくさんあるわ。まずはカーブスに行きましょう。気分が悪くなれば即帰宅。カーブスのモットーは、ノーメイク!ノーミラー!そしてノーメン!」
 それから半年間、コーチの理解とサポートを得て、ワークアウトに励みました。
 もしあの時、カーブスに入会していなかったらどうなっていたでしょうか。病気の転移や再発の不安に押しつぶされ憂鬱な気分で家に籠っていたかもしれません。術後の精神的ストレスもありました。寛ぎの時間である入浴もストレス。夜、暗闇の中で入浴。風呂場でも「ノーミラー」です。
 「手術をして、こうして生きていることが何よりも素晴らしい。」と心の奥で理解していました。しかし、現実の姿を受け入れるまで時間が必要でした。
 抗癌治療は終了しました。これから一年間は三週間ごとにハーセプチン治療(点滴による癌細胞への標的治療)、五年間は毎日ホルモン剤(エストロゲン生産抑制の錠剤)を服用します。薬の副作用も乗り越えて、2学期から仕事に復帰するつもりでした。


 その前に、元気になった姿を母に見てもらおうと、夏休みに実家に帰省。しかし、母の体で心配していたことが現実になりました。
 父の亡き後も、札幌で気丈に一人暮らしをしている母は、身だしなみにも気を遣うおしゃれさん。話上手でしっかり者。多くの人に慕われる自慢の母です。喉の不調を訴えていたのですが、帰省の際の検査で癌が見つかり、即入院となりました。介護できる家族は私だけ。仕事復帰を取りやめ、家族の理解を得て、母の看病に専念する決心をしました。
 またもカーブス天使が語りかけます。
 「あなたならしっかり看病できるわ。早く決断して手術を受けたのも、カーブスで筋力を維持してきたのも、お母さんを看病する準備だったの。札幌でもカーブスに入会しましょうね。」
 さっそく入院先から一駅先にある「札幌南郷通」に転籍。やがて、ありがたいことに実家の近くに「札幌円山」ができ、再転籍しました。しかし、母の退院の見通しはつきません。
 ワークアウト後に母を見舞う生活が長く続きました。入院先の病院で、私のハーセプチン治療も受けました。数か月ごとに、一週間ほど橿原に帰宅。片づけをしてすぐ札幌へ。長い留守になりましたが、家族は多忙な中協力し支えてくれました。


 やがて季節は夏から冬へ。雪国の冬は危険がいっぱいです。深々と雪の降る寒い夜、一人実家にいる時も、カーブス天使が語りかけます。
 「凍った雪道で足を滑らせ、腕・足を捻挫・骨折したりしないように気をつけてね。まずはカーブスへ行きましょう。でも頑張りすぎないようにね。ゆったりしてお母さんとたくさん楽しい思い出話をしましょうね。」
 しかし、入院当初元気だった母も次第に衰え、院内でも車椅子生活に。やがて緩和治療が始まり、会話は少なくなりました。私のハーセプチン治療が終了した三日後、二〇一〇年六月六日、人生最後の偉大な深呼吸をゆっくり一つして、母は永遠の眠りにつきました。最後まで娘の治療を見守ってくれました。
 明るい気持ちで困難な状況を乗り越えた八十一年間のあっぱれな人生でした。次第に冷たくなっていく母の手を握りしめながら、私は感謝と別れを告げました。
 札幌でもカーブスとの出会いがありました。その支えを得て、娘として母への最後の務めを果せました。同じ病院で治療し看病しながら母と一緒に過ごせたかけがえのない日々は私の大切な宝物です。命を受け継ぎ伝えるたくさんの想いのこもった人生のバトンを、私は母から確かに受け取りました。このバトンを次は子供達に渡します。


 退職した今は、「ヤマト橿原」でワークアウトを生活のリズムにしながらゆったり暮らしています。仕事中心から地域中心の生活になりましたが、カーブスはエクササイズだけでなく、地域の人々との出会いの場と改めて実感しました。
 「創業者ゲイリー・ヘヴィンもその主旨でカーブスを創設したのよ。」と、天使が答えます。
 同じ時間帯の方々と親しくお話しをし、互いの経験を交流できます。毎年開催される記念イベントでも、楽しいひと時を過ごせます。カーブスコミュニティーの場でこれからの人生の示唆を得ています。お話する機会がなくマシーンを黙々とこなされている方の姿を拝見していても、励まされることがたくさんあります。
 ホルモン剤の服用期間は残り一年。副作用で関節や筋肉がこわばり、太りやすくもなりますが、ワークアウトの効用で、こわばりは軽減し、体重は現状維持。骨粗鬆症にもなりやすいのですが、年一回の骨密度検査で、私は常に標準値を上回っています。これも皆カーブスの大きな成果です。
 カーブスは、私の生活の、また人生の一部になりました。これからもカーブスと共に歩みます。


 最後に、カーブスの役割を世界の女性達に広める契機を与えて下さったゲイリー・ヘヴィンの今は亡き母上に敬意と感謝と哀悼の意を捧げます。