もうすぐ5月を迎えます、一年前の私は家に閉じ込もりがちでした。他人(ひと)に会う事がめんどうで、疲れると勝手な自己理由で家の中だけの生活。かつ、座り込んでテレビを視る毎日、昼寝付きの生活でした。当然、体重増加と無気力状態になり身軽に動けない身体を大切に保護し、大事に思い、30分のウォーキングも3日坊主で、4日目には膝が悲鳴をあげる有り様でした。
 かつて、23年間勤めた大好きだった仕事を、体調を崩し辞めざる得なかった事で、生活のペースを乱してしまったのです。子供達の育児、成長、結婚を見届け親としての役割分担がなくなった事も、一因になったかと思います。


 そんな時、ある知人よりカーブスの存在を聞き、腰椎ope(手術)後、1年経過していたことと、何か始めたい、動きたいという思いにかられ、昨年4月下旬に、いちばん近い壬生町中央店に一歩踏み出したのです。
 "明日もまたネ"の言葉に支えられ後押しされてこの1年の間に前向きに気持ちスッキリの毎日を過すことができる様になりました。


 振り返れば、昭和52年、次男の妊娠を知ると自分の体調の変化に気付き、妊婦健診の時に内科受診を勧められました。病名は、甲状腺機能亢進症(バセドウ氏病)です。
 出産までの産科と内科のタッグマッチで無事に次男を出産した時の嬉しかった事、でも母乳を一滴も与えることができない現状でした。(投薬のため、)唯一、飲める薬も副作用の為肝機能障害の悪化で甲状腺摘出術を受けることになりました。生後6ヶ月になる次男を実家の母に託し45日間の入院生活をスタートさせました。面会に来た我が児の無邪気な仕種にベッドの中で涙したものです。それ以来、病院を仕事の場として選んだ自分の宿命でしょうか入退院のくり返しを何度となく行ない、記録として、全身麻酔ope5度。最後は、平成22年11月の脊柱間狭窄症の腰椎opeです。思い起こせば、体重が増え始めた頃にソフトバレーボールの試合中に起きた、右膝靱帯損傷の事故、翌、平成8年の頸椎ヘルニアの激痛が治まらず、結果的に頸椎opeを施し、それから13年余りも経過していたのですが、手のしびれ、足のしびれと不自由な部分はありましたが、除々に歩行困難状態になったのです。買い物に出かけショッピングカーを押しても歩行時間10分程度、夜、ふとんに横になってからおきる腰の激痛で寝不足生活と、ほんとうに辛い日々を過しました。
 車椅子生活を覚悟しましたが一生この生活はいや!!治したい!!という一心で腰椎opeを受けました。手術後、定期的に外来通院して左手のしびれ、右足のしびれも残こるまま担当医に思いきり聞いてみたひと言があります。
 「先生、少し軽い運動ならしてもいいですか?近くにカーブスというジムが在るんですが?」
 担当医の答えは良いものでした。もちろん、カーブスの事も知っていました。オッケーがでてすぐに電話をかけてみました。何とその時の受け答えの明かるかったこと。不安を一掃するもので「待ってますョー」という声に訪問日を約束しました。5月10日の初日、不安のまま、数人の知人から聞いて得ていたカーブスの概要を実際に自分の目で見学し障害を持ちながらでもやっていけるのかなという思いを脱い去る事ができました。
 思えば、バセドウ氏病のope後、右膝前十字靱帯切断の為のope、頸椎ヘルニアope、左膝良性腫瘍のope、腰椎opeと切った張ったの大手術をこなしてきたこの身体をカーブスのマシンに預けることができる喜びを痛切に実感しました。


 今の私にとってこんなにも充実した一日一日はありません。子育てのため、23年間勤めた大好きな病院内での仕事も、下肢静脈りゅうという病気で断念せざる得なかった悔しさ!!
 今は、年金生活の日々をカーブスへ通う道すがらとてもとても満足で充実した気分ランランの安全運転です。もちろんカーブスのメンバーさんの中に趣味を通じての仲間もいて、顔を合わせては笑顔が絶えません。トレーナーの方達の「明日もまたネ」の言葉にどんなにかパワーを貰ったことか。何年後かに体重をおとし寝たきりにならない生活を充実して送る夢を見ています。あせりません。少しずつでいいのです。
 月単位、年単位で成果をみていきたいと思います。最近では、定年退職した主人を家に残こしカーブスタイムとして私の自由な時間を一日の中でどこに見つけるか、毎日毎日が新鮮そのものです。午前中のカーブス仲間の笑顔の顔、午後のカーブスの仲間の会話、みんなみんな、おもしろく良い人ばかりです。
 人一倍汗かきの私ですが、「いい汗かいたネ明日もまたネ」の言葉が背中を押してくれます。
 「明日もまたネ」の言葉に支えられ明日は何時にカーブスへ行こうかな?