一週間のうち、私は3日間だけ仕事に行く。残りの4日は主婦である。そして、その4日間、私は母であり、妻であり、嫁である。つまり、「私」である時間は、私自身が作りだそうとしない限り、一瞬たりとも出来ないかもしれないのだ。仕事に行けば、もちろん仕事人になり、家にいれば家族の用事をこなすのが私の存在意義となる。
そうした状況の中で、私が私となるために、私はカーブスに行く。仕事でしでかした失敗を背中に乗せて、マシンの前に立つ。すると、私は私の筋肉とおしゃべりしながら、落ち込んだ気分を一瞬捨てることができるのだ。夫から頼まれた買い物の前に、カーブスに行く。ストレッチをしながら、私はしばしお金の工面を忘れて、自分のおなかについた贅肉を確認する。筋肉も贅肉も紛れもなく私なんだと確認して、私は自分の身体と向き合うのだ。
若い頃から私は他人の調整役として過ごすことが多かった。リーダーとみなされることもあったし、背伸びしてまとめ役を買っててることもあった。そして、いつも後悔した。家庭を持ってからもそうだ。当たり前のことではあるが、自分の身体や自分の用事は、常に後回しにする癖がついた。その方が私自身も都合がよいからだ。そして、時々、訳もなくイライラする。
四十代後半になると、なんだかそれでよいのだろうかと疑問を持つようになった。自分の身体や自分のしたいことともっとじっくり向き合ったほうがよいのではないかと、思い始めたのだ。
そして、私はカーブスと出会った。最初は、漠然と体重が減らないかなと思ってドアをたたいたのだが、四年目を迎えて私は確信した。私はカーブスに通うことで、自分の生活にリズムをつけているのだ。それも、とびっきり楽しいハーモニーとあわせて。筋肉のついた自分の脇腹を触るとき、私は自分がしてきた自分作りが着実に進んでいることを感じ、誇らしい気持ちになる。
見方によっては、これって、「うつ」への治療となっているのかもしれないと思う。密やかに、しかし確かに忍び寄る老いを潔く受け入れることとも、関係があるのかもしれないと思い、私は改めてカーブスと出会ってよかったと思うのである。