平成15年5月、3歳年下の妹が突然入院、癌でした。その頃私は町内にある会社の事務員として後半年程で、勤続20年そして60才の定年を目出度く迎える予定だったのです。しかし妹の快復を信じ、すぐ会社に退職願いを出し、その日から病院で泊り込みの看病に入りました。
しかし今思えば、その時もう手のほどこしようのない状態で、看護師さんからは痛み止めをもらうだけ。すさまじい痛みに身悶えする妹の身体をさすってあげる位しかできなかったのです。家族の必死の願いも虚しく、最後は眠るように50代の若さで旅立って逝きました。
私はもっともっと妹に何かしてあげられなかったのか、ホスピスの事とか、いろいろ後悔し苦しみました。兄夫婦と孫に囲まれ幸福に暮していた母も同様だったらしく娘達と旅行に行ったり遊んでやれば良かったと悔やみ、未だ町内の老人会に入れてもらうには早い私を無理に入会させ、毎月の様に一緒に旅行に連れて行ってくれました。
そんな状態が一年程続いた後、やはり私は妹をもっと上手に看病してあげたかったとの思いで、ヘルパー2級の資格を取り、3ヶ月後、母に「母さんの時は上手にやれるから大丈夫だよ」と言っていました。その1ヶ月後本当に母は老人性うつ病から寝たきりになってしまったのです。早速私は研修で学んだ通り、母をモデルに心おきなく練習させてもらったのです。
半年後、家族に見守られ大好きな自宅で静かに妹の待つ天国へ帰って逝きました。母の死から4ヶ月私は悲しみを忘れようとヘルパーの仕事に打ち込もうと、その日もお客様の夕食作りを終えて帰宅途中、雨が降り傘をさし自転車で信号を渡ろうとしてガードレールに追突。救急車で病院へ、左肩関節複雑骨折と腰骨の圧迫骨折の重傷でした。手術後、心配かけまいと知らせてなかった実家の兄嫁が、かけつけてくれ、そして「昨夜、変な夢をみた、えんま様の前で死んだ妹が手を拝せて姉を助けて下さいと泣きながら頼んでいると、えんま様が、この女は自転車の運転が、おおちゃくなので死ぬか、大怪我か、どちらかだと怒っている。妹が大怪我の方で良いので助けて下さいと頼んでくれたと言うのです」。
私は妹の、あの苦しみに比べればこんな事位と、そして婦長さんの「修業と思って頑張りなさい」の一言に2ヶ月余の入院とその後、2年のリハビリに励みました。左手の指も肩の砕けた骨で神経が切れたとの事で動かず。左肩も30度位しか上がらない。右手の1/10の力しかない。そして入院中の筋力の衰えにより、尿失禁、うつ病、以前から少し痛かった両膝が、とうとう座ろうとするとパキッと音をたて、思わず「あっ」と声が出る位の痛みになってしまい、テレビで宣伝されていた薬を飲み始めました。
そんな時、兄嫁の勧めもあり、すがる思いでカーブスへ行き始めたのです。最初はカーブスへ行って来るだけで大仕事で、後は一日中家の中でゴロゴロしているだけでした。でもそれから2ヶ月、なんと体重が3㎏も減ったのです。そしてスタッフ全員の明るい、ミモザの笑顔や生まれて始めて「Sさん、Sさん」と名前を呼んでもらえると、照れ臭いやら嬉しいやらで、つい笑顔がこぼれてしまいます。
又、色々な人達と沢山話をしたり、励まし合ううち段々元気をもらって明るくなり、ふと気が付くと、いつのまにか尿もれもなくなり、病院のリハビリでも進歩のなかった、左手の指も、診察の先生から「驚異的な回復力ですね」と、驚かれたのです。恐る恐る、そうと座っていた膝も、すっかり痛まなくなって、薬もいつのまにか飲まなくなっていました。
本当に、筋肉を鍛えるのが一番大切と言う事を身を持って実感しました。今カーブス歴3年目、最近は体力がついたのか、2泊3日のバスツアーでも足も腰も痛まず楽しく行けるようになり、カーブスで知り合った友達の紹介で、ヘルパーの仕事も、ちょっぴり再開。子育てボランティア、絵手紙、料理教室と、もちろんカーブスも1ヶ月15日以上目標クリアー、そして又良い事が、10年来、中性脂肪が、200~400と言う信じられない数値だったのが今月の血液検査で105になったのです。バンザーイ。娘の様な可愛いスタッフに励まされ、運動した後の心地良い汗と充実感に浸りたくって、今はもう一日の日課になっているカーブスへ今日もミモザの風の中、ペダルを踏んでいる私なのです。