母は、私を昭和29年11月25日午前7時に3680gで生んでくれました。そんな私も、32歳になった時父が倒れて寝たきりとなり母一人で世話できない為、独身貴族の私が仕事を辞め帰郷する事を決めました。その時長女が、一人で背をわず無理しないでいつでも応援するからと言ってくれました。私は三人姉妹の末っ子で一番の問題児、親泣かせでした。足の骨折・胆石の手術・交通事故では頭蓋骨陥没骨折、後数ミリ陥没していたら、即死か植物人間になっていたそうです。奇跡的に、意識が戻り徐々にリハビリが始まりました。そんな時、付き合っていた人からの突然のプロポーズ、日常生活も難しいのに受けていました。そんな二人に披露宴で父は、「嫌になったら、直ぐ帰って来い」と号泣。そんな父を思い出し、世話するしかないと決めたと思います。主人とは、やはりリハビリしながらの生活は無理があり、2年半で離婚しました。それから半月後、父は眠る様に自宅で息を引き取りました。
そしてすぐに一年が経ち、お世話してくれる人があり今の主人と出会い今に到ります。結婚してから、主人は母と本当の親子の様に仲良しで有難かったです。そんな母が、年齢とともに足腰弱りデイサービス利用したり、それ以外は家で簡単な手伝いをして過ごす日々でした。それなりに平穏な日々でしたが、私の誕生日の翌日何時も見ているテレビ番組になっていない為、母に声をかけると息をしていませんでした。「こんなこと絶対にダメ、此処で死なせるものか」との思いで蘇生を試みていると、母が大きく息をして意識が戻りました。救急搬送され即入院、診断は難病治療は難しいと言われました。入院して4か月後、主治医から病気は治りました、後は食事が入れば大丈夫と説明受け一喜一憂しました。病院を療養型の病院に転院したのですが、食事が入らず徐々に弱っていき入院5か月で変えらぬ人となりました。旅立つ時、意識が無かった母が曾孫に手を握られた時、涙を一筋流して旅立ちました。
何故こんな話をするのか、私が今カーブスに通い元気になっている事が、何故母と通えなかったのかと悔やまれて居ます。そして今では、主人も私を見て健康志向となり運動したり、食事も私と同じ高蛋白・低カロリーの生活。2人共主治医から、検査の結果良好。私は以前、一日に薬を8錠飲んでいましたが最低ミリ数で2錠までに減りました。以前は、カーブスを行かない様に言う先生でしたが、「カーブスってどんな所、良く知らなくて」と聞かれるぐらい。
今私は、70歳近くになりました。カーブスへは片道25分かけて、車で通っています。何時まで運転できるか、それがとても今の大きな悩みです。
是非、我が町にカーブスを作ってください。勿論、男女カーブスをお願い致します。
佳作
「カーブスに通っていてよかったと思った瞬間」
カーブスって
どんな運動?
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