脳出血で右半身の自由を奪われ、車椅子の生活となった主人との介護生活は、十一年であっけなく終ってしまいました。
企業戦士とよばれ、超多忙な毎日を送り、私と向き合う事も、家庭生活のぬくもりも、少なかった時代の穴埋めをする様に、主人と私はずっと一緒、幸いにも言語機能は残されていたので、沢山話し合いました。
他人様からは「大変ですね」と同情されましたが、私自身は主人の全てを知りつくせる事に幸せを感じて暮して居りました。
健康になんの不安の兆しも見えなかったのに最后の日を迎える一ヶ月程前から
主人は「ありがとうナ」をくり返す様になり
「世界一、幸せな男やなァ 俺は......」と言う様になりました。
十一年の介護生活は、まだまだ続くと覚悟してこれからの事も考えていた私には、冗談としか聞こえず
「ハイハイ、ありがとさん!」と答えていたのですが、買物に出た或る日の夕方、私にさよならも告げず 主人は一人でそっと逝きました。
救急隊の電話の指示通り、息を入れながら「ありがとう」と強く抱きしめ「ラストキスだよ。さよなら」と別れました。
忙しかった毎日を終えた私は、十一年間の介護生活の、やり残した事を思い、詫びてばかりでした。
子供や孫達に支えられて何とか心は立ち直る事が出来たものの、今まで車椅子を持ち上げても、重い主人を入浴させて無言で働いてくれていた私の身体が、きしみ始めました。
ひざ、腰、肩、首が夜昼なく代る代る、時には全部一緒に私を痛め続けます。トイレが大変!が、こればかりは他人様に頼めず何とかこなしますが、多くの事は、手抜きか、手を借りるしかありません。
整形、整体など何軒行ったでしょう。どなたも仰る事は ほゞ同じです。
「加令に依る使い痛みですネ。お大事に」
自分の年令を思えば 納得してしまう私です。飲み薬、貼り薬をどっさり貰って、忠実に飲んでも貼っても一時しのぎです。
「手術したら何とかなります?」と私はすがりますが、「このお年だから余り勧めません。上手にだましだまし使って下さい。季節が代れば、楽になる事もありますから」と親切につき放される始末でした。
何とか買物に出た或る日、カーブスの広告が目に入りました。いつも前を通っていた筈なのに広告も看板も見ていた筈なのに...
腰、ひざの痛い方へ と呼びかけ、多くの朗報が書いてあります。過大広告だ、そんないい事ばかりあるものかと眉にたっぷりツバをつけて、でも駄目でもともと、だまされてみるか と覗いて見る事にしました。
懸命に語るスタッフの話を申し訳ないが 話半分に聞いて、全て納得した訳でもないがダメモトでトライアルを始める事にしました。
私の体調と目標を伝えると「大丈夫ですヨ」と請け合ってくれたがホント?又ひどくなったら?など沢山の?マークを身体中に貼りつけて始めました。
マシーンを選び乍ら、現状の私に合わせた指導が始まりました。喘息が持病の私にはマスクをつけての運動はかなりきつく、すぐ息が上ります。
「やはりムリ!」と思いつつ、女の意地で止めるのは、いつでも出来る、とがんばりました。
何と言う事でしょう!!
半年経たないのに、私のまわりから?マークが少しずつ消えていきました。駅でエレベーターを探さずとも階段が以前ほど苦になりません。
勿論、手すりの傍を歩き、いつでもすがれる準備は、していますが...
「どっこいしょ!」が減ったネと娘が笑います。なるほど何かを持たずに 椅子から立ち上る事が出来ていました。
お友達からのお誘いも「ゴメンネ。実はネ」とお断りする事よりも「ありがとう 何日?」とお返事する事が多くなりました。
以前は仏壇に向って「いつお迎えに来てくれるの」とつぶやいて居りました。生前主人は「お前さんの時間を取ってしまったから、ゆっくりしてから、俺の所へおいで、三途の川のそばで待ってるから」と笑って言ってたものでした。
今、私は「あなたにお話することを一杯集めてから行きますから もう少し待ってね」と 毎日明るく手を合わせています。
「きっと、もう少しがんばれば お墓の前できれいにしゃがんで拝んでいる姿を、見てもらえる様になりますよ。ほめて下さいネ、あなた」