朝刊の一面にあった書籍の広告が目に留まった時、思わず手を止めた。驚いた!何とこんな出会いもあるのかと、私は心をわしづかみにされた。
『ピンポンのない人生なんて』
決して強くはないが私は七十一歳、練習は週4で試合もこなす。
昨日は午前中に練習。更に友達が時間変更になった私のチームに練習に来るので歓迎して夜七時から付き合った。その翌朝の月曜日の出来事だった。
ふと、カーブスのコーチから聞いていた「カーブスエッセイ」のことが浮かんだ。手術をして在宅療養している息子がいる。気持ちの余裕はないと頭の隅に押しやっていた。締め切りまでもう一ヶ月も無い。それなのにピンポンとカーブスが繋り、書きたいと思った自分にまた驚いた。
ピンポンとの出会いは四十八歳。婦人会の役員として訪れた卓球部への差し入れだった。年上の人達がゆっくりと球を追う姿に、運動不足の解消になるかもと思えた。普段は白衣の薬局のMさんが「Hさんも入り!」と誘ってくれ入部したが下切りの球が取れない。
平凡に子育てをしながら、動力ミシンで制服の縫製を内職にしていたが一週間に一度練習するピンポンは私の生活を変えた。
その後、市の卓球教室に入ると、先生が総合体育館の試合を教えてくれ、同じラケットのプレーヤーを見ておいでと言われた。
大きな体育館はカラフルなユニホーム姿の選手達で満杯だった。パワーが充満したその場に居るだけで圧倒された。私もこの選手達の仲間に入れる様に頑張ろうと心に決めた。
遠くて高いが、目指す目標が出来た。
喜びの中にも一抹の不安が過ぎった。コーチも周りの人も腰痛を口に出した。卓球教室の知り合いのY氏が居た。卓球歴があり「卓球を続けていたら腰痛になるの?」と聞くと、彼は「卓球をしても、しなくても年取ったら腰痛にもなるわ」と答えた。
本当にそうだ、先のことは分からない。今、卓球をしたいのか否か。何が待つか分からないが卓球をしようと決めた。
時を同じくして私にもう一つの転機が訪れた。
子育てをしながら通った、通信制高校の友人はヘルパーさんだった。彼女とはマイカー通学時によく話した。人間、それも障害や老いと関わるヘルパー業に興味がわいた。
老眼が来て縫製の仕事に限界を感じていた私は、平成六年、市社協の登録ヘルパーになった。
ヘルパーの仕事は自分の行く先が予想出来た。動く体は動かす意志が必須の条件となる。ヘルパー業と卓球の練習は同時進行した。
ピンポンが益々面白くなった。
デビュー戦は高砂市8町の婦人会のシングルだった。負け試合から始まったがその後、2部の敗者の部で優勝し楯と表彰状を貰った。「あんた、卓球にはまるでー」と先見の明に優れた先輩がいた。
ピンポンに出会ってからよく風邪をひき弱かった体が変わり練習は生活の中に溶け込んだ。諦めていたことを試してみたいと思うようになった。ぶっ倒れた山登りだ。忘れられない二十歳の苦い過去だ。体力が無く、準備不足で当然の結末だが、県内一髙い氷ノ山で同行者に迷惑をかけ頂上を見ずに引き返した情けない自分。それが平成8年、見事な雲海の中からご来光を迎えた富士山頂では、三十年前の惨めな自分を払拭できた。
ピンポンとの出会いは私の可能性を広げた。室内で一年を通して動けるピンポンと、夏場の縦走登山は相乗効果を見せた。それにヘルパー業は動ける喜びを感じた。
ピンポンの快音は雑念を吹っ飛ばした。小さな試合からだが、誘われたら怖がらずにチームの一員になった。石川県能登、七尾総合体育館の『西日本レディース卓球フエスタ』は衝撃的だった。カラフルな仮装で予選、翌日はユニホーム姿で本戦だ。
この現状を維持したいと思い、妹がカーブスに通っていたので、そっと覗きに行った。宝殿のカーブスだが私に気付いたコーチが親切に説明をしてくれ即入会した私は六十二歳だった。仕事の合間にカーブス通いをした。
当時、新聞に投稿したものを手元に残している。宝殿の教室に張り出してくれた懐かしいものだ。
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筋トレの成果 母背負う
好きな登山をずっと続けたいと、筋力トレーニングを初めて1年半。成果を生かせる機会が、思いがけなく訪れた。
89歳になる母の入れ歯が、夕食中に割れた。最寄りの歯科に電話したが、その日の診察は終わっており、翌日の朝一番で診てくれるという。
翌朝、ひっそりとした医院の玄関先に車を横付けし、「少しの距離だから」と車いすは使わず、母に手を添えて歩いてもらった。ところが、玄関ドアまであと少しで、母が「足が痛くて伸ばせない」と立ち止まってしまった。玄関まで、わずかな傾斜だったが、こたえたのだろう。
覚悟を決めた。「しっかりつかまって」と母に言い、腰を落として約37キロの体を背負い、立ち上がった。体勢はスクワットにそっくり。「筋トレは母を背負うためだったのか」と思わず笑ってしまった。背中から「おおきに、おおきに」という声が聞こえた。
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試合後の腿やふくらはぎの張りを改善出来たし、食事や体のチェック等は気に入り3年余り通ったが、カーブスは私にとって面白みに欠けた。
同じ体力、筋力作りながら、泳げないプールの方にと変更した。
二年もすると、クロール、背泳、平泳ぎができた。しかし思い切りの背泳が原因なのか、肋骨が折れた。リブバンドをしたら試合もこなせたが、やり過ぎか、私が弱いのか、本末転倒の疲労骨折と思えプールは辞めた。
カーブスは面白がる所ではなく豊かに生きる基礎作りの場なのだ。
この後、私は平成二十七年にカーブスへ復帰した。
新しく出来たコープ高砂のカーブスは私の家からは一キロもない。知り合いとも出会い会話が弾む。
ヘルパーは十五年余りで退いた。仕事中風呂の介助で腰を痛めたことはあるが、卓球では腰痛の心配はなかった。登山も県内の山から雪渓を踏むアルプス迄挑戦出来たが仲間にドクターストップがかかり、自然消滅していった。
体は変わる。
去年の六月膝に痛みが出て予定の試合を棄権した絶望感に苛まれた生々しい記憶がある。その時、思い切りピンポンをして来たので終わっても悔いは無いと思った。
カレンダーの余白にはこんなメモを残している。
「6月6日、卓球人生再スタート
ありがたい儲け(もうけ)の時間。明日は○○教室3回目。パワーアップ パワフルなプレー
左膝に変形性膝関節症を潜め持ちながら」
十年物の弱点の左膝は自分で体操療法をし、カーブスの筋トレ、ストレッチで今は痛まない。時々世話になる整骨院の先生が、余り進行しないのは運動を続けているからだと言った。
広告の本に興味を持った。ピンポン発祥の国イギリスで取材された『つるとはな』。紳士と淑女が頭、体、コミュニケーションができ心に良いと絶賛していた。ロンドンで100年以上前ディナーテーブルを台にしてテニス代わりのゲームを始めたのが起源だとか。イギリスでピンポンがよくぞ誕生してくれた。
試合もどれ程の人と向き合い握手を交わしたが知れない。パートナーと気持ちを一つにして球を追う。心に残るのは、札幌の『北海きたえーる』の大きな体育館で男性選手の力強い宣誓。全国から来た選手達の年代別団体戦に参戦したことだ。勝ち負けとは別の所でワクワクした。
出来ないことが出来るようになると、見えなかった問題点が見えてくる。
私はペンホルダーだが裏面プレーに今年からトライ、まだまだ可能性を試してみたい。
カーブスではスクワットやレッグ・エクステンション/レッグ・カールでは膝の調子がわかる。強く、時には力を加減して筋トレに励んでいる。この一年で念願だった減量5キロをクリアした。息子も仕事の復帰を考え出した。九十五歳の母も車椅子生活ながら健在だ。
うたた寝をした湯船にパシャ!とスマッシュを叩き込んだ初心者の頃からピンポンとは相性が良い。可能性を最大限引き出してくれたピンポンのない人生なんて私には想像できない。