2001年9月11日、世界中が驚き、恐怖におののいた日であったことは、記憶している方も多いと思います。ニューヨークで起きた貿易センタービルの爆発テロ事件だ。とんでもない事件で、二機の飛行機が貿易センタービルに突っ込むと、たちまち真っ黒な煙に覆われて高層ビルは炎に包まれ。多くの人々が犠牲になるという許されない事件であった。
これから記そうとするのは、我が家にとっての大事件であったのだ。その日の午後、自宅に戻った私と数名の兄弟は、茫然とした気持ちでテレビを眺めていた記憶がある。茫然の気持ちが「ダブル」に襲っていたのだ。
長男のお嫁さんは、とても明るく色白で美人で私とも仲良しで、とても素敵なお嫁さんでした。4人姉妹であったが、一番丈夫で、両親のお話では、病気ひとつしたことがない人だったらしい。子供にも恵まれ、3才の子供をそれはそれは大切に育てていた。そんなお嫁さんに、2人目が出来たと報告をうけたのが、4月後半頃であった。とても喜び、家族揃っておめでとうと言っていた。5月後半ころから、腰の痛みが出ていると聞いていたが、妊娠するとよくあることなので、私もそれと同じ考えを持っていた。毎月診察してくれていた医師にも同じことを言われ、人によっては、生まれるまで腰痛があるらしいことも聞かされていた。ところが、その後も腰痛は一向によくならず、病院も数院にかかったが、どこも同じように言われていた。6月中旬にどうにもならなく、救急車で聖マリアンナ病院に運ばれたのです。先生方も首をひねるにばかり、何故?遂に他の臓器も検査してみましょうと提案されたのです。手始めに「胃」の検査から始めました。ラッキーなことに、一発目の検査で異常が見つかりました。ところが、「進行性の胃癌」わかり、手術もままならず、なんと余命3ヶ月、あるかないかを宣告されたのです。あまりの宣告に驚き、とまどい、どうにも言えない気持ちで、毎日のように泣いていたのでした。
そして決意したのです。3歳の孫は、私達夫婦が育てることを約束したのです。それから約2か月半頑張りましたが、1941年9月10日に永眠しました。34才という若さでした。勿論お腹の子も一緒に天国に召されました。
先般に書きましたニューヨークテロが起きた日は、あきらめにも似た憔悴しきった気持ちでテレビを眺めていた日だったのです。9月11日は我が家の通夜の日なのでした。悲しい哀しいつらい日でした。私は、しっかりと孫の手を握り、この子のために全人生をつぎ込もうと改めて決意した日でした。
あれから16年が経過し、3才だった孫も、受験を乗り越え18才、今年大学生となり、私の長年に亘る第二の子育ても一区切りかと思っています。これからは、自分のことを考えて生きよう、人生楽しまなければ・・・。
何かないかと、いろいろと調べておりましたが。テレビから「カーブス」のコマーシャルが流れ、これならできるかな?と思い、近くに教室がないかと調べ「市が尾教室」のことがわかりました。しかし、電車で通うことに抵抗を感じて決断できずにいました。
そんな折、鷺沼駅近くに「カーブス』ができることを知り毎日のように買物に行くスーパーの近くであることから、これなら通えるかな?長年、体のことを殆ど考えずに来た私ができるかどうか心配もありましたが、病院にかかったことも殆ど無く、有難く生きてきた私ももう74才、長男からも親の健康のために協力する申し出があり、インストラクターの皆さんに励まされながら、頑張っていけるかな・・・と思い入会を決意しました。
入会してビックリ、ご高齢の方々の元気に「筋トレ」に励んでいる姿でした。でも疑問もあります。幼児を抱えた若い奥様達の少ないことです。子育てに忙しいとは思いますが、結構ランチを楽しんでいる姿も見掛けるのです。私の経験から母親は絶対に元気でなければならない、子供が不幸仁ならないためにも母親は早くから、全身の筋トレを積み、貯金ならぬ「貯筋」の大切さを知らせて欲しいと願います。月謝の特例を考えると入会しやすいかな?と思います。42歳の娘にも勧めています。
インストラクターの方々の指導もとても適切で毎日『カーブス』に通えることを心の喜びとし、お嫁さんが元気だったら、絶対にすすめ、姑と嫁で仲良く「筋トレ」を積めたのに、きっといまだに元気でいたでしょうに・・・
今は、孫の子育ても一段落、16年間の心の空白を埋めるためにも、『カーブス』に一生懸命通い、「筋トレ」に励むつもりです。入会して半年、まだ体の変化は変わりませんが、肩こり、血圧も安定してきたのも嬉しく「今日も30分頑張りますよ」そして永く飽きずに継続したいと思っています。
佳作
「「カーブスを通して変わった私」・・私が「貯筋」をお勧めしたい人々」
カーブスって
どんな運動?