私が紫色の看板を楽々園の駅前に見つけたのは今から10年前の2006年冬。通勤で使う駅前で紫色は異彩を放ち、看板は広告をキャッチーに兼ねておりひと目でそこで何が行われ、対象者が女性に特化しているという、ありそうでなかった最大級の売りが観てとれた。その上道路に面した立地。信号待ちでの数分間、面積の多い紫色を観察することは多くの女性の必然であったことだろう。しかし、私は当時38歳。家庭を持ち子供もいた。30分とはいえ時間とお金を確保するなんて私には夢のまた夢でしかなかった。特に朝と夕方は5分でも貴重だった。戦争だった。建物の真横を足早に通り過ぎ子育てに奮闘しわが身は後回しに過ごした。紫色の建物の中には、会社帰りに独身OLやセレブなマダムしか入れないと思い込んでもいた。「私には、私の幸せがあるんだ」と、羨ましさとひがみ交じりな気持ちを封じ込め納得させた。けれど、紫色はそれからも時折、私の気持ちにノックしてきた。横断歩道で赤信号になる度に、「30分」「女性だけ」と。でも、自宅からは車で40分もかかる場所でもあり、いくらノックされても私の背中を押すには至らなかった。
そして時は流れ、子供の成長に伴い仕事を、アルバイトからパート、そして正社員へと支出の増加に合わせ給料がより多くもらえる職へと変化させてきた。紫色の看板を見ることもできなくなった。山あい暮らしを選び、不便ではあったけれど季節の移り変わりを五感でかんじながら大自然の中でのんびりとおおらかに子育てを楽しんだ。副産物としては、校区の小学校の裏山にアーチェリーができる施設があり、長男は日本代表としてユースオリンピックに出場を果たした。ここに家を買ったからこその出会いだ。実家は九州の離島で両親はともに健在ではあったが、具体的な支援を受けることはできなかったので、隣の他人の支えは心身共に染みていた。各職場での上司や同僚、子供を通じた友達は生涯の、お金では買えない財産となった。
マイホームの住宅ローンの支払いをしながら、長男は京都の私立大学に通い始め、長女は高2。次男は中1。本格的に教育費が家計を浸食していきていたが街から遠く離れた土地で、大したとりえもないおばさんの職種の選択肢は極々限られていた。学校からの緊急の呼び出しに即対応できる圏内で働くという条件も背負っており、近くの特別養護老人ホームで正社員として夜勤もこなし始めた。そうなると、深夜勤務のために昼夜が逆転し、ご近所との立ち話や、毎週末のように友達と家族ぐるみでどちらかの家でしていた食事会の回数はめっきり減っていった。それでも家計は火の車。もう、正社員の道を退くことは一生、不可能と思えた。そうして、私は少しずつ疲労が蓄積し始めた。一番近くで私は見ていた主人が、私の弱っていく姿を見かね、再々、「もう少し夜勤を減らしたり、パートに戻ったりしたら?」と言っていた。私が軽いうつ病の持病を持っていたことも考慮してのありがたく優しい助言だった。けれどその頃の私は、そんな主人の言葉に耳をふさいでいた。むしろ優しい言葉なんていらないから、自分のことくらい自分でしてほしかった。面と向かって言う気力もなく、陰でののしってすらいた有り様。彼も正社員の嫁との暮らしは初心者だったのだ。自分に色々なしわ寄せが入り始め、二言目には「仕事やめろ」とも言った。八方ふさがりでとても切なかった。
そんな生活も3年目を迎えた春、新しく異動してきた男性の課長から、先輩正社員としての自覚と責任をこと如く要求された。リーダーとして勤務する日の緊張感も更に肥大していた。介護度の高い高齢者ばかりなので生活の全てはいつも、死と隣り合わせ。新人時代には知らぬが仏だったことにも、日々恐怖や不安を募らせた。最期の時に立ち会う職員はその人に選ばれし者と、もてはやされた。入浴介助。書けば4文字のこの介助だが皮膚は薄いガラス細工のようで、注意を怠ると、腕を持ち上げるだけでも皮膚が剥離する。繊細さとパワーの両方が求められた。食事介助では頑なに口を開かず無言の抵抗を見せる方に本当に泣かされた。夜間、「おかあちゃーん」と叫ぶ声が真っ暗な廊下に響く。おむつ交換。ベッド上で、自分の便を全身、顔面に塗りたくっていても私たちが行くと笑顔で振り向く。こちらも笑うしかない。そしてもはや、そこにいる100名のお年寄りが私の身内と同化しないはずがない。勤務が終わり自宅に戻っても、その大家族のことが頭から離れない。しかも死は突然に無情にも訪れた。日中に亡くなられた方がいらっしゃるとその日の夜には、遺品整理が業務となる。その方の残り香に囲まれながらたった一人で。。悲しみや別れの辛さを押し殺して仕事をするうちに、慣れが生じ、一世紀近く生きてきた方の幕引きのあっけなさに疑問を持たなくなっていく。次の入所者が後に控えその日が来るのを心待ちにしている御家族がいるのが現実。朝は必ず来た。私の心はどんどん消化不良を繰り返す。家族との天秤が、今にも消えそうな命の方に傾いていった。
一旦は、そんな生活にも慣れてきていたのに、自分が知らぬ間に無理が通らなくなってきていた。ある日、食事の介助中にパニック障害を起こし、過呼吸になってしまった。己を完全に見失っていた。会社はいつでも職員の味方であった。決してブラック企業などではない。全ては自己管理能力の欠如。これに限る結末だ。。。私はその後、会社1か月、休むことを女性の部長から提案され、腰を抜かし気絶しそうになった。会社で、しかも部長の前で2時間以上涙が止まらなかった。夜勤がある職場でのシフトチェンジは容易ではないことも百も承知していた。会社や入所者に大迷惑をかけた。
その後、退職願を休職扱いに、とも言ってくれたが、1年前起業した主人の会社も軌道に乗っていて退職を可能にしてくれた。通院自宅療養しながら1年が過ぎたころ、たまたまカーブスに自転車で通える場所に引っ越し、あの時のノックにようやく答えることができた。紫色はまだそこで私を待っていた!会社を休み始めた頃は、横になると、身体が畳に吸い込まれ泥になって地面に流れ落ちていくような感覚があった。今では真逆でボードに立つと羽が生え体が浮き上がる心持ちがする。心拍数をカウントすると、お釈迦さまが憑依する(気がする。)輪の中に笑顔をみつけるもコーチの「腹圧!」の声掛けにハッとしてワークアウトに勤しむ。
カーブス歴はもうすぐ丸2年。時々病気を再発してお休みもするが、体幹は少しずつ再構築されているようだ。私らしさを保ち、まだまだやりたいことをいっぱいやり遂げるためにカーブスは欠かせない。これからもいずれ、身体を引き裂かれるような、深く辛い永遠の別れがいくつも訪れるであろう。私にも私の大切な人達にも。どうか、その日が来ても、皆が少しでも健やかでありますように。それが願い。
佳作
「カーブスと私」
カーブスって
どんな運動?