離職、それは突然訪れました。定年退職を二年後に控えた春の事です。一連の不況が原因でした。振り返れば二十四年間働く中で、毎日が時間に追われ当時子供も小さく、必死で子育てし慌ただしく歳月が流れた、と云うのが実感です。それが急に束縛から解放され自由と成ったのです。自由と云うと語弊がありますが、主婦の仕事に終りはなく、時間の使い方や要領が分らず、家事に追われ毎日が過ぎて行った様に思います。

自分の為に何か時間を費やす事等考えても見ませんでした。天気が良い日は干し物をしないと損をした気分だし、お陽さまと競って草取り等も日課でした。それだけ動けば夜は眠れる筈、なのに神経質な性格と前向きに考えられない私は、徐々に不眠症に悩まされる様に成って行きました。昼間ウトウトッとしてハッ、五分十分が長く感じ、今何時?遅刻?何番だっけ(交替勤務をしてた)そして心臓が早ガネを打ち出すのです。そうだ仕事は辞めてたんだと胸を撫で下ろす事も度々でした。それから一年半が過ぎた頃友人が来ました。開口一番"こえたね!"え!ショックでした。暑い日で肩の出た服は着てましたが、こうも面と向って云われると、ヤバイ!と焦りました。私の中では確かにふくよかになった感じはあり、娘達から"少しは運動したら"の言葉に毎日動いてるから大丈夫、と自負みたいなものがあったのです。それに市の健康セミナー等に参加し、筋トレや散歩を実行して居ました。でも一人でするには限界があり、根気のない私は段々とおっくうになり、何もしてない状態だったのです。そしてもう一つ悩みがあったのです。三十代後半からくり返すギックリ腰、重い物を持ったり無理した時、洗濯物干す時、等々、その為に運動は無理、出来ない、と決めつけ逃げてる部分もあったのです。改めて人から指摘を受け、やはり何かをしなければ、と自覚しました。

そんな時です。新聞の折り込みチラシでカーブスの広告を見つけました。様々なコースのお試し期間や内容が載せてあり、どれにしようか迷う私に、電話で聞いたらの娘の一言、それでも迷いがありました。腰痛の他に膝の手術もしており、最近では肩も痛めていたからです。しかしこのままでな何も進歩しない、と思い切って電話を入れました。女性の方の対応で症状を告げると"やはり少しは運動した方が良いでしょう。一度見学方方おいで下さい"に清水の舞台から飛び下りた思いでカーブスの門を開きました。そこは明るい雰囲気で、三人の女性スタッフの方がおられ、女性会員二十代から七十代の方達が真剣に運動に取り組んでおられました。個人面接で色々心配する私に"少しは運動した方が良いでしょう、その人にあった運動の仕方が有ります。一緒に頑張りましょう"とアドバイスを受けました。マシン等上手に使えるか心配する私に、"大丈夫ですよ、自分のペースでいいんです、気楽に、気楽に"の対応に肩の力を抜く事が出きたのです。

通い続けて二ヶ月、三ヶ月と私の中にカーブスが溶け込む様に成り、成果も期待出来るかな、と思った頃です。そそっかしい私は左足の人差し指を骨折してしまったのです。自分に腹が立ちましたが仕方ありません、休暇届けを出し完治するのを待つ事にしました。そしてその二日後、兼ねてから腰痛に苦しんでいた夫は手術に踏み切りました。

所がそれは想像も出来ぬ夫婦共還暦の年、平成二十三年二月二十五日、襲う衝撃の結果は、晴天の霹靂であり、奈落の底に突き落された思いで真っ青に成りました。手術前には健全だった機能に麻痺が表われ、障害の二文字を背負う羽目と成ったのです。ドラマみたいな事が我が家に起こるなんて、とても信じられません。何故?どうして?手術しなければ良かった...と後悔の念に苛まれ、生きた心地はしません。毎朝計ってた体重計、痩せて行くのが恐く止めました。しかし本人の苦痛、苦悩はいかばかりでしょう、内攻的な性格の夫が、一生背負う事になるかも知れない障害に、耐え切れるだろうか。一人にはさせられない、私が頑張らねば、骨折なんか忘れて我が身を奮い立たせました。幸い右足は使えて運転は出来たので、片道一時間余りの病院へ、手弁当と水を持って通いました。それと方向音痴の私、交通量の多さや事故の心配で握るハンドルにも力が入りました。

そんな生活が二ヶ月程過ぎた頃私の母が突然他界したのです。

目の前が真っ暗になりました。一人娘の私は父を中一で亡くし夫の理解で母と同居して十七年、でも夫の事は何も知らせてませんでした。入院中の夫は三日間の帰宅許可をもらい、葬儀等地区の方々の協力もあり無事済ませ気院したのです。後髪を引かれる思いだったに違いありません。私も最期の言葉を交わせず、優しく接しなかった悔いを引きずる日々に、このままではいけない、九十三才大往生と思わねば、と気持ちを切り替えるのでした。その後も夫は病院を三ヶ所転院、症状の回復の兆しのないまま、本人の希望もあり退院しました。六ヶ月間に及ぶ入院生活でした。そしてあの日(手術)から一年、何の解決も無いまま月日だけが流れて行きます。本人にとっては生き地獄、患者としての弱い立場、やり場の無い苦しみと戦って居るのです。それでも私は、生きているから、生命があっただけでも、と夫を励まし努力しよう、長生きしなければ、と気合い(無理して)を入れるのですがヌカにクギです。それにあまり人使いが荒いとストレスが溜まり、私の雷が落ちます。心と裏腹な態度、それも相手あっての事、私にしか云えないんだ、と反省の日々でもあるんです。しかし、あの大変な時期をよく乗り越えられたな、と思うんです。そこにはカーブスの存在が大きく影響していたのです。カーブスとの出合いが無かったら、と思うと恐い位です。それに足の指の骨折、実は同じ箇所を二度していたのです。そんな時、手紙が届きました。カーブススタッフ三人の方からの骨折(最初)への見舞でした。女性ならではの心遣いが伺えます。あまりにも色んな事が重なり落ち込んでいた私は、一筋の光が見えた様で目の前がパァッと明るく成りました。悪い事ばかりはないんだ、なるべく早くカーブスに復帰しよう。

夫の入院三ヶ月後から通い出しました。オープン十時に入り終って病院へ行き昼食、そんな日課でした。それでも、マシン、ストレッチ、集中出来ない時もあり、随分暗い表情(出さない様努力したつもりでも)してたんでしょう。"帰る時の笑顔がいいですネ"スタッフの方の声掛けが、負けずに頑張らなくちゃ、明日も行こう、と後押しをしてくれるのです。人見知りする私の性格を、上手に引き出してくれる娘達と同世代の、Nさん、Mさん、Hさん、本当に有難うございます。その明るさ、元気に随分助けられました。もちろん沢山の方の励ましもありました。がカーブスとの出合いが、私を救ってくれたと信じてます。

カーブスが自宅より車で十分以内に有る事も幸せです。これからも元気を貰いに通います。将来寝た切りにならない為に、人に迷惑を掛けない生き方をする為に、ずーっと通い続けたいと思います。夫には内緒にしてますが、カーブスがあったからこそ元気で、病院にも通えたし、頑張れた、と説明すれば理解してくれる筈。会員の方が友達で(勝手にゴメンナサイ)、娘達みたいな(又、又ゴメンナサイ)三人のスタッフの方、これからもよろしくお願いします。