三年も病んでいた左膝がこの頃急に楽になってきた。医者には、膝関節が減ったためで加齢によるものだから、とたいした手当てもされない。しかし、患者としては痛みをなんとか軽減してもらいたい一心で通ってはいたが、はかばかしい効果はなかった。そのうち患者仲間で、とにかく膝の周りの筋肉をしっかりつけないとダメらしいという情報をほかから聞いて、医療頼みばかりではなく、運動による回復を、と試行錯誤が始まった。そんなおりにみつけたのがカーブスであった。
 スーパーに行くついでに寄れる場所で、病院のように待ち時間もないという嬉しさ。

 

 痛みがひどかったころ、階段は先に上げた元気な右脚に病んだ左脚をつける形で一段づつ上がっていたのに、いつの間にか、左右交互に上がっている。ちょっと頼りない左脚だが先に出してよいしょっと伸ばしてみると、上がった!左脚だけで五十数キロの体が一段上がった。もう一段あがった。トントンとはいかなくてもこの調子がいつまで続いてくれるだろう、とわが身を観察してきた。
 下りるのもかなり上手になった。左脚は一度伸ばさないと下の段に着けなかったが、右脚を曲げると同時に段差を予測して左が下りていくようになった。しかし用心のために手摺りのうえに手を載せているのは習慣になっている。

 

 夕方住宅地の外れの公園まで往復するのを日課にしてどのくらいになるだろう。杖を持って、はじめのころはゆうに四十五分はかかっていたのに、いつのまにか三十分ちょっとに短縮した。一緒に歩く連れがまだ話し足りないというので、公園で軽いストレッチをしてすこし遠回りしても、あっというまにスタート地点のわが家まえに着いてしまうほど歩くのが早くなった。いつのまにか杖も忘れた。
 そういえば最近、踏み出した足の踵が着地するとき、膝の後ろや腰、背中のほうにクッと軽く地面から押し返してくるような力を感じるが、これが体中に伝わって心地よい。肘も意識して大きく振る。肩甲骨あたりがほぐれていくのがわかる。ウオーキングをしなかった夜は寝つきがわるいし、カーブスに行かないと何時になっても体が目覚めない。

 

 カーブスで、レッグ・プレスは二十回ちかくいけるようになった。脚を伸ばしきらずに体に引き寄せた膝を押し返すのはキツイ。一所懸命動かすと膝の回りがジンジンしていかにも効いている感じがする。グルートも最初は片脚七、八回くらいしかできなかった。特に左脚は気持ちよく伸びない。はじめは意識的に左に時間をかけるようにしたが、むしろ今では左脚のほうが気持ちよく力が入るくらいだ。蹴ったときに背中に響く筋肉の連動は、力強く歩いたときのように血液を循環させるものらしい。

 先日久しぶりに、夕方一緒に散歩する友人とふたりで軽い山歩きをした。わたしがどのくらい歩けるようになったか試したかった。山はアップダウンの少ない落葉樹の林だったが、裸木を縫うように柔らかい落ち葉の道を三時間ほど歩いた。
「ああ、とうとう歩いた。ほんとうにありがとう、あなたのおかげよ」
「もうだいじょうぶね、これでかなり自信がついたでしょう」
無理と思ったらいつでも引き返そう、といってくれた友人に頼って決断した久しぶりの山歩きであった。

 

 四五年まえ、中央線の富士山が真近にみえ高川山に登ったことがある。あのときも同行者は今回と一緒であった。山の北側の深い残雪に驚かされながら南に回りこむと、どーんと富士山が目の前に現れて、もう一度歓声をあげた山だった。下りコースはヤセ尾根でそのうえ雪解けの滑る道。わたしは細心の注意をしていたにもかかわらず足を滑らせた。頭を下に向けて転んだことを思い出していた。メガネは歪んだが、幸いどこも怪我はしなかった。
 しかし老いのサインは転ばなくても突然に顔をだすものだということを、膝の痛みで知った。障害で行動が制限されるなど若いときは考えもしなかったこと。
 杖を持つなんて、だれかに会ったら恥ずかしいというところがあってなかなか慣れなかった。しかし転ばない注意は自分でするしかない、外出をやめるか杖を使うか。杖を使いながらでも、行きたいところはなるべく出かけようと決めた。はたして今はまた、立つ、座る、歩く、と、自由に、杖を忘れて動くことが出来るようになった。
 膝関節痛には自転車を漕ぐのがよい、と聞いても二本の脚がまあまあ元気でないと乗れないものだ。これも体験してわかった。
 走れる日もそれほど遠くはないだろう。
 生きていることは、筋肉に支えられて自分らしく行動できること。よりよい体質を求めてサプリメントの併用もある。しかし、それも受け皿になる筋肉がしっかりしていてのこと。筋肉は種をまく大地、大地あっての肥料ということになるだろう。
 筋肉を休まず耕し続けようと思う。